上沼恵美子VS木村拓哉「ドッグウェア」論争(?)に思うことなど

くわしい経緯は知らない。
たまたま、ネットニュースを見ていたら、ドッグウェアの是非を巡って上沼氏と木村氏の間でやりとりがあったらしい。
どうやら、木村氏がドッグウェア使用に関して、「これは完全に人間の「エゴ」だからね」と発言したのに、上沼氏が反論したようだ。

この記事を斜め読みして、感じたことなどを気ままに綴ってみたい。

◎そもそも、愛犬や愛猫を大事にする行為自体が人間のエゴである。

私自身も、イヌも猫も大好きだ。
小さい頃、家には秋田がいて、自分なりに可愛がっていた。
猫は飼ったことがない。

絶対王者・川口は、今でも亡き愛犬をSNSのアイコンにしている。
上沼・木村両氏も愛犬家のようだから、それぞれの視点からドッグウェアに対して意見を述べているのだろう。

しかし、冷静に考えると、動物を飼う行為自体が人間のエゴに根差した行為であることは明白だ。
まあ、「飼う」という言葉を嫌って、愛犬等を「家族」「息子」「娘」扱いする人も多いようだ。
それでも、愛猫などを人間扱いする態度・心情は、きつい言い方をすると、人間の勝手な思い込みであり、この勝手な都合こそが「エゴ」である。

動物は、法律上は「もの」である。
さらに言うと、動物に関する法律が整備されるより遥か以前から、人類は意識的か、または無意識的にか、動物を「もの」と見なしてきた。

犬にしろ、猫にしろ、なぜ、今日の世界に、これほど多種多様な犬種や猫種が存在するのか。
答は簡単で、人が長い時間をかけて、犬や猫の異なる品種を次から次に、創り出したからだ。
それこそ、「人間の都合=人間のエゴ」が駆動力となり、自分たちが求める性質・形状・容貌を具現化した犬や猫をプロデュースしてきたのだ、まるで、人間にとって好ましいモノや道具を生産するかのように。

誤解しないで欲しいが、当ブログは愛犬家や愛猫家を「エゴイスト」と言っているわけではない!
また、動物の品種改良にかける人間の熱意や努力を否定しているわけでもない。
むしろ、逆で、人間社会が今日あるのは、この自らの欲望(=エゴ)に忠実な人為の賜物だと認識し、人間とはそういう存在だと理解しているだけだ。

犬派も猫派も、他人に迷惑をかけずに、自分の愛情(=エゴ)を思いっきり愛犬や愛猫に注げばいい。
だから、上沼氏はドッグウェアを使用し、木村は飼い犬に与えなければ、すむ話。
ただ、それだけのことで、両者のエゴに優劣もなければ善悪もない。
キーワードは「人に迷惑をかけない」だ。

ただし、他人に迷惑をかけたり、危害を加える飼い犬などは、単なる「迷惑物」「危険物」だ。
時折、中型・大型犬が飼い主の手から離れ、無関係の人間を噛んだり、襲ったりする。

このような犬は、ただの凶器であり、即刻殺処分すべきだ。
なんといっても、法律上、犬は「もの」であるから、その原則に則って駆除すればいいだけだ。
そう、蚊やゴキブリを平然と殺すように。

◎動物愛護派とは、自分たちのエゴが他人に害をなしていることに気づかない連中だ。

日本の熊愛護派は、熊に対する愛情(=エゴ)にとらわれるあまり、冷静に物事を考えることができないようだ。
多くの日本人は「熊をすべて殺してしまえ」と主張しているわけではなく、「人に危害を与える個体、またはその可能性のある個体を駆除すべきだ」と意見しているだけだ。

先述のように、飼い犬が第三者を襲い、負傷または死亡させれば、殺処分される。
それと、同じことが熊愛護派には理解できないらしい。

飼い主が「普段はおとなしい」と弁明する犬が、子どもや老人を襲う事例など、いくらでもある。
まして、野生の熊の行動など予測できるはずもないから、「人に危害を加えるかも」と判断したら、即座に駆除対象にすべきだ。

熊愛護派よ、いいかげんに悟れよ、お前たちのエゴのせいで、人命が失われていることを。

◎オーストラリアよ、コアラを殺処分するなら、日本の捕鯨に文句をつけるな。

オーストラリアのビクトリア州で森林火災が起きた影響から、700頭のコアラを殺処分したという。
上空のヘリコプターから銃撃が行われ、州政府のいう「安楽死」の名のもとに、多数のコアラが殺された。
内外から、州の対応に批判が殺到しているらしい。

当ブログは批判しない。
内政問題だし、何度も言うように「動物=もの」でもあるから、ビクトリア州の好きにすればいい。

ただし、ひと言だけいいだろうか、反捕鯨国のオーストラリアさんよ。
自分たちの都合(=エゴ)でコアラを殺すなら、日本人の都合(=エゴ)で行っている捕鯨に対して、文句をつけるなよ!
貴国も我が国も、自国のエゴを優先しているだけだから、お互い様だろ。

それともなにか、「クジラは賢いから殺すな」と主張したいのか。
本気でそう考えているとすれば、笑止千万だ。
なぜなら、「賢い動物は殺してはならない」は「賢くない動物は殺してもいい」とほぼイコール関係にあるからだ。

そして、その延長線上には、多人種や他民族を勝手に「劣等」と判断する差別意識が生まれ、弾圧や虐殺の正当化へとつながるのではないだろうか。
歴史上、特に15世紀以降に白人国家が異教徒や他民族に対して行った蛮行の根源には、「自分たちより劣った人間は殺してもいい」という歪んだ優越感が存在したのかもしれない。
この論点には、今回は、これ以上は深入りしない。

とにかく、反捕鯨国は日本の捕鯨にチャチャ入れるな!
オーストラリア人よ、コアラだろうが羊だろうが、「好きなだけ」殺せよ。
我々、日本人は「必要最低限の」クジラを捕獲し、有効利用し、感謝し供養するから。

ということで、いつの間にやら、ドッグウェアの件から反捕鯨国への不満をぶちまけてしまったな、ハハハ。
常連の皆さま、毎度のことで、あいすいません。