すでにアップ済みの『徳川「太平の世」の礎は豊臣秀吉の朝鮮出兵にある!』の関連記事である。
多少の内容重複があれば、ご容赦のほどを。
何度か、当ブログで取り上げたように、1494年にスペインとポルトガルは「トルデシャリス条約」を締結し、身勝手に世界を二分割する「デマルカシオン体制」を確立した。
要は、当時の二大強国が、自分たちに都合のいいように、地球を二分割して、各々で世界の半分ずつを統治しようとしたのである。
この独善的な条約を根拠に、スペインとポルトガルは領土拡大・植民地開拓政策を推し進めていく。
その先兵となったのが、キリスト教宣教師団である。
その流れの中で、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したのが1549年。
同じく、イエズス会士のルイス・フロイスが日本に来たのは1563年である。
このフロイスが著した『日本史』は日本史研究者にとって貴重な資料である。
信長と直接対面したフロイスが伝える、覇王・信長の人となりが記述されているからだ。
信長は、フロイスやオルガンティーノ(これもイエズス会士)と面談をしながら
*フロイス自身のこと、ヨーロッパやインドの情報やキリスト教の教義、宣教師の活動
*ポルトガルやローマ教皇に関する情報、ポルトガルによるインドのゴアの支配、ゴアのインド副王のことなど
*オルガンティーノが贈呈した地球儀により世界全体と日本の位置関係や地球が丸い事実
少なくとも上記のような内容を、信長は即座に吸収、理解したようだ。
別のイエズス会士、ヴァリニャーノが1581年に信長に謁見を許された際には、世界地図を見ながら、ヴァリニャーノが辿った海路を説明させている。
フロイスや他の宣教師との会話から、ポルトガルが地球のほぼ半分を支配する実力を持つことを信長は理解した。
また、ポルトガル国王がイエズス会を庇護し、同会がポルトガルの世界侵略活動の先兵である事実も、当然、把握していた。
信長の家臣がイエズス会の危険性を注進することも多々あったが、覇王には先刻承知のことで、悠然と構えていた。
秀吉が同様の危惧を伝えた時も、信長は「インドのゴアのような遠方から、日本を征服するに十分な兵力を送ってくるのは不可能だ」との趣旨の発言をして、冷静に当時の情勢を分析していた。
信長亡き後、秀吉はインド副王やフィリピン総督に書簡を送り、ぶっちゃけると「俺を甘く見ていると、痛い目に合うぞ。なんだったら、いつでもかかってこい!おまえらの国王にもよく言っとけ」との旨の、一種の恫喝を行った。
では、信長はどのような示威活動を行ったのか。
◎1581年の馬揃(うまぞろ)え
天正九年(1581年)、信長は京都にて、実に13万人を動員したと伝えられる大規模な馬揃えを開催した。
馬揃えとは、今風に言えば、軍事パレードである。
丹羽長秀や柴田勝家をはじめとした信長軍団が参加して、「天下布武」を標榜する信長の権力・武威を世間に見せつけた一大閲兵式だ。
正親町(おおぎまち)天皇、数多くの公家の臨席はもとより、イエズス会とその背後にあるポルトガルへの牽制であろうが、前出のヴァリニャーノ他の宣教師たちも参加を許された。
要は、国内(天皇、公家、武将)と世界(ポルトガル、イエズス会)に向けたパフォーマンスであり、日本はおろか世界をも視野に入れた信長の世界観、ポルトガルなど「恐るるに足らず」との自信をそこに見ることができよう。
正親町天皇が「唐国もかようのこと、あるまじく」と語ったとされ、見物した京都の群衆も「本朝の儀は申すに及ばず、唐土・高麗までも、かほどの有り様はない」と褒めたたえたという。
おそらく、招待されたイエズス会の面々は度肝を抜かれたのではないだろうか。
後に、秀吉が書面でスペインやポルトガルを威嚇したが、実は、それ以前に信長が大々的な軍事デモンストレーションを挙行して、南蛮人たちの心胆を寒からしめていたのだ。
今更ながら、織田信長、偉大なり!
まさに、日本史上に燦然と輝く巨星である。
◎宣教師に「安土城之図」を贈呈
馬揃えなる一大軍事パレードで天下に武威を示した信長は、前出のヴァリニャーノや他の司祭・修道士たちを安土城に呼び寄せ、その全体像を惜しげもなく公開したという。
標高約200mの安土山一帯に築かれた、この城は、当時の技術の粋を集めて建造されており、壮麗な威容を誇っていた。
見学したイエズス会宣教師団は、おそらく、息をのんだにちがいない。
さらに、ヴァリニャーノが帰国する際に、信長は、「安土城之図」を贈っている。
これは、安土城と城下の風景を描いた屏風絵であり、狩野松栄(=狩野永徳の父)が信長の命で描いたものだった。
ただの土産ではなく、帰国後のヴァリニャーノがローマ教皇に献上することを計算したうえでの、信長の行動であろう。
安土城の威容を世界に紹介し、日本と信長自身の権力・富・武力をアピールする狙いがあったと思われる。
事実、この「安土城之図」はローマに運ばれ、教皇は大いに満足したと『天正年間遣欧使節見聞対話録』に記録されているようだ。
前項の馬揃えと安土城案内、さらには屏風絵によって、信長の威光と静かなる自負は、南蛮人を威圧するのに効果覿面であっただろう。
◎おわりに
信長は、天下統一の前段階から、すでに世界を見据えていた。
フロイスがイエズス会総会長に送った書簡には
⇒「信長は(中略)毛利を平定し、日本六十六ヵ国の絶対君主になった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分け与える考えであった」とある。
もし、明智の謀反がなかったならば、、、
あと、十年、信長が長生きしていたら、アジアの勢力図はおろか、世界史全体も大きく書き換わっていたかもしれない。
つくづく、余計なことをしてくれたものだ、光秀は。
信長と秀吉のおかげで、当時の世界には「日本=最強の軍事国家」とのイメージが定着したとみてよいだろう。
徳川「太平の世」が成立したのは、江戸幕府以前の信長・秀吉の対世界戦略が西欧諸国の日本侵略に対する抑止力となっていたからだ。
関連する秀吉の記事と、少々重複があり、申し訳ない。