それにしても、実に面倒くさい!
え? 何のことって?
もう、お気づきの常連さんもいるでしょう。
そう、「しな」と入力しても、一発で「支那」に変換できないもどかしさ。
だから、いつも「し」を「支」、「な」を「那」にする、二段階変換せねばならない、という次第。
本当にくだらない!
あの国を、英語圏では何と呼んでいるか?
言うまでもなく、「China」だ。
この「China」の語源は、支那最初の統一王朝とされる「秦」である。
ラテン語で、「支那」をどう表記するか?
周知の通り、「Sina」だ。
日本語の「支那」と同音だ。
とまあ、ここまでは前振り。
本題に入ろう。
今、モンゴル出身で、日本に帰化した大学教授の本を読んでいるところ。
いろいろ興味深い内容があるので、少し、紹介したい。
ただ、変換が面倒くさいので、今回は「中国」を用いる。
我国の「中国地方」の方々には、大変、申し訳ございません。
◎ モンゴル人から見ると、中国は小さな国だ。
日本人にとって、中国は「大きな国」のイメージが強い。
ところが、モンゴル人から見ると、日本は小さい国ではないし、中国も広大な国ではないらしい。
このモンゴル生まれの教授の言葉を直接、引用しよう。
⇒「私は南モンゴルの高校を卒業して北京に出たとき、初めて万里の長城を越えた。超えた瞬間に『わー、なんて狭いところにきてしまったんだ』と思った。子供の頃から『中国は小さくて狭い』と聞かされていたが、実際に自分の目で確認して本当だと思った。モンゴル高原から南へ下がっていくと、中国という小さな国があるというのが私の認識だった」
もともとが遊牧民であるモンゴル人は、北極星が輝く北の方角を「上手 かみて」だと考えるという。
そして、南の方角を「下手 しもて」と見なすらしい。
北は「尊くてありがたい」とし、南は「朝起きて、用を足す」ところだと考える、と教授は書く。
再度、その書から引用しよう。
⇒「トイレの先に、中国と言う小さな国があるという認識は、おそらくウイグル人なども同じだろう。ユーラシア大陸の諸民族から見た対中認識である」
いやはや、中国が「トイレの先にある小さな国」だとは、、、、
日本人の感じ方とは、全く異なっていて大変興味深い。
◎ そもそも、モンゴル人が見る地図は、南北が逆だという。
日本人の使う地図では、日本の東にユーラシア大陸が位置している。
従って、中国は、日本の東にある広い国だとの印象がある。
ところが、モンゴル人が見る地図は、日本のものとは南北が逆らしい。
すると、モンゴルから見た中国は、万里の長城のさきにある「小さな盆地」に映るとのこと。
教授は、日本人も地図を上下逆にして、「日本が上で中国が下」の視点でとらえるといい、と指摘する。
◎ 日本には「通史」あるが、中国にはない。
1911年、中国最後の統一王朝である清が倒れた。
辛亥革命である。
その後、孫文や蒋介石を始め、多くの中国人が日本に留学した。
自国(清)に勝った日本に多くのことを学びに来たのである。
その留学生や研究生たちは、水戸光圀が編纂させた『大日本史』や、頼山陽の『日本外史』などの歴史書を読んだ。
蛇足だが、『大日本史』も『日本外史』も漢文で書かれているため、中国人には読めるのである。
それらの中国人たちは、その時初めて、自国には「通史」がないという事実に気づき、愕然とした。
自分たちは、日本人に漢字を教えてやったという優越感があった中で、「日本人に歴史では負けている」とショックを受けたらしい。
冷静にみると、秦の時代から、大陸では王朝が交替する時に、新王朝が滅びた王朝の歴史を記述してきた。
要は、個々の王朝ごとの歴史はあっても、すべての王朝をまたぐ通史が中国には無い。
一方、我が日本には、通史がまぎれもなく存在する!
この厳然たる事実に直面した中国人留学生たちは、日本の歴史観に憧れを持った、と教授は言う。
そして、その羨望が、「ある概念」を生み出した。
この続きは、次回に。
◎ おわりに
最後に、この教授と著書名を簡単に紹介する。
静岡大学の教授で、楊海英(ようかいえい)という方だ。
南モンゴルのオルドス高原出身で、日本に帰化している。
日本名は大野旭(おおのあきら)といい、数々の専門書を執筆している。
今回、引用したのは、一般向けの本で、タイトルは『中国を見破る』という新書。
大変興味深い書物なので、再度、記事にしたい。