今年も、お盆の時期がやってまいりました。
皆さん、お墓参りしましたか。
毎年、父方の墓、母方の墓、寺の納骨堂や祖父の愛人の墓などなど、お参りするところが多いブログ主でございます。
幼いころから、両親とともに、この時期は墓参を欠かしませんでしたから、行かないとスッキリしないんですよ。
もっと、ハッキリと本音を語れば、墓参りをすると、堂々と酒を飲めるというわけです!
ハハハ!
別に、年がら年中、飲んでるんだろ?とか言われそうですが、やはり、気持ちの持ちようと言いますか、、、
ケジメをつけるとでも表現しましょうか、、、
数か所の墓参を済ませると、「うん、今年の盆もいい仕事をした」と自分を納得させることができるわけですよ。
すると、「あ~、今年の盆も酒が美味い!」につながるのです。
さて、タイトルにあるように、日本の盆行事のもとには、偽経ではないかと噂される一つの経典の存在があります。
それが、『盂蘭盆経 うらぼんきょう』です。
◎ 盂蘭盆経とは?
竺法護(じく ほうご 239~316年)という西晋時代の著名な僧が漢訳したとされる経典です。
ただし、この伝承には疑いが持たれています。
というのも、現在の研究では、『盂蘭盆経』の成立時期は、5世紀ごろだと推定されているからです。
おそらくは、西域か支那で作られた偽経であろうとみるのが、大方の専門家の意見です。
ここでいう「偽経」とは、インドに原典が存在しない創作である、という意味で使っています。
◎ 『盂蘭盆経』の内容を簡単に紹介します。
釈迦の十大弟子の中に目連という人物がいました。
この目連尊者は、神通力を体得し、その秘法を駆使して亡くなった母親の様子を見通しました。
すると、目連の母は餓鬼道に落ちており、飲み物も食べるものもなく、ガリガリにやせ細って苦しんでいます。
目連は、母を救うために、ご飯を届けますが、母が食べようとすると、口に入る前に食べ物が燃えてしまいます。
母を救えず、悲嘆した目連はお釈迦様に救いを求めるです。
お釈迦さまは「夏の修行が終わる日に、僧たちを集めて、食べ物や果物を施して、供養しなさい。そうすれば、あなたの母親を救うことができる」と目連に教えました。
目連が、その通りにすると、母親が餓鬼の境遇から救われましたとさ、というお話です。
(要は、親孝行に励むことや僧に布施をすることを勧めたお経ですね。)
◎ ツッコミどころ満載のお経です。
多少なりとも、初期仏教の知識がある人にとっては、いかにも偽経っぽいというか、釈迦本来の教えとはかけ離れていることに気づきます。
*目連が神通力を得たというところが、、、
⇒もともとの釈迦仏教では、「神通力」などの神秘的な力については明確に言及していない。
⇒つまり、「目連に神通力がある」という時点で、アヤシイのである。
*話の中に、持国天・増長天・広目天などの「天」の諸仏の名前が登場するところ(上の内容紹介では省いています)。
⇒「天」とは、もちろん、「如来・菩薩・明王・天」の中の「天」である。
⇒上記のようなジャンル分けは、釈迦仏教の教えには存在しない。
⇒一部の専門家は、『盂蘭盆経』の原型は、初期仏教にある、などと主張しているようだが、「天」などが混在している点から、釈迦入滅から数百年後に成立したのは間違いなく、一種の「偽経」であると考えるのが妥当であろう。
*そもそも、釈迦自身は、家も家族も捨てて、覚りを目指した人物である。
⇒ハッキリ言って、お釈迦さまは、とんでもない「親不孝もの」である。
⇒何不自由ない生活を与えてくれて、自分を大事にした親を捨て、愛する妻子を捨てて、出家(=家出)したのがお釈迦様である。
⇒繰り返すが、こんな自分勝手な(?)人物が「親孝行」を説くはずがない。
⇒釈迦の行動が、支那の儒教や道教が説く「孝」の徳目と完全にかけ離れているからこそ、支那で仏教を受容するために「親孝行」を讃える「偽経」をでっち上げたという説が、真相に近いと思う。
◎ 別に、盂蘭盆経が偽経でもいいんじゃないの?
一部の専門家は、「『盂蘭盆経』は偽経だ」と言われることに不快感を覚えるようで、一生懸命に「偽経説」を否定している印象を受けます。
ある学者は、「『盂蘭盆経』の原型は、最初期の『経蔵』に収録されている『餓鬼事経』に見られる供養がベースとなっている。従って、『盂蘭盆経』は偽経ではない」と主張しています。
まあ、この辺の議論は、何をもって「偽経」と呼ぶか、つまり、「偽経の定義」論争にもなりそうです。
ただ、『盂蘭盆経』の成立時期が、ほぼ定説の5世紀ごろだとすると、最初期の『餓鬼事経』から7~800年ぐらいたっているわけです。
両者を比較すると、設定に違いがあったり、初期仏教には存在しない「天」が言及されたり、支那の儒教や道教の匂いがプンプンしたりするわけです。
だから、「偽経」と主張する研究者の言い分の方が、ブログ主にとっては、説得力があります。
*でも、別に偽経でもかまわないと思う!
我々、日本人にとって、先祖供養とか親孝行などの考え方は、わりと自然に受け入れることができるものだと思います。
日本には、もともと「祖霊信仰」があると指摘する学者は多いし、日本社会は実際に儒教の影響も受けていますから、『盂蘭盆経』の内容に違和感を覚えないのかもしれませんね。
別に、それでいいんじゃないですか?
年に一度、墓参をして、亡き身内やご先祖様に心の中で語りかけても、何の問題もないでしょう。
日本人を始め、多くのアジア社会の人間が持つ素朴な先祖供養という慣習自体には宗教の持つ「狂気」は潜んではいないと感じています。
ただ、その純粋な気持ちに付け込んで、高額な商品を売りつけようとする輩や、家庭が崩壊するほどの布施を求めるカルト教団が存在するのも事実です。
そこだけ、しっかり押さえておけば、偽経『盂蘭盆経』の世界観に、年に一度ぐらいなら、ハマってやってもいいのではないでしょうか。
追記
ブログ主の友人には、親孝行者が多い。
磯貝や岡谷などは、典型的な「孝行息子」である。
見習いたいものだ。