「加上説 かじょうせつ」を知っていると、仏教思想の流れが理解できる!

仏教って、なんかややこしいなあ~、と感じている人へ。
今から紹介する「加上説」という視点から仏教思想を考察すると、そのモヤモヤ感がかなり消えていきますよ。

仏教が難しいと思ってしまう理由のひとつに、お経の種類の多さがあります。
でも、「加上説」がその複雑さを、かなりスッキリさせてくれます。
それでは、本題に入りましょう。

◎ 加上説とはなにか?

例えば、一番古い経典Aから一番新しい経典Eまで、A⇒B⇒C⇒D⇒Eという「左から右への成立順序」があるとします。

BはAの内容を超えたい、またはAよりも優位であると主張するために、Aを土台にしながらも、新しい要素を加えたり、批判を加えたり、内容を加工したりする傾向にあります。
いわば、BはAの「増補改訂版」になったり、場合によっては「全面改訂版」として登場することが多々あります。

要は、後発の経典は先行の経典の権威を利用したり、内容を改変して自らを独創的にみせるなどの工夫を凝らしたりして、自説が最高だとアピールするわけです。

このような考え方を「加上説」と言いまして、江戸時代の天才学者、富永仲基(とみなが なかもと)が唱えたものです。
ここでいう「加上」とは、「上書き」とか「改変」、場合によっては「update」などと解釈すれば、わかりやすいかなと思います。

◎ 加上説によって、経典の成立順序が明らかになった。

天才富永は自らの独創的な学風によって、多種多様な仏典の成立・展開の順序を以下のように推定しました。

阿含⇒般若⇒法華⇒華厳⇒大集・涅槃⇒頓部楞伽(=禅)⇒秘密曼荼羅(=密教)
*この推定結果は、現代の研究成果とほぼ一致しています! まさに、天才です!

◎ 加上説によって、各経典が先行の教えを超えようとしていることが分かった。

1 一番古い阿含系と次世代の般若系との比較

阿含経典には、「一切の現象は存在する」と説かれています。
般若経典は、「一切の現象は実在しない、実在するとみるのは人間の妄執であり、一切は空である」と教えます。
⇒般若系が阿含の立場を批判・改変(=加上)して、「空」の思想の優位性を主張しているわけです。

阿含は小乗の経典であり、般若系は大乗最初期の経典です。
大乗側が小乗仏教よりも優れていると説きたいために、阿含の内容を否定(=加上)して、「空」という新概念を打ち立てたと考えられます。

ただし、当ブログで紹介したように、現代のテーラワーダ仏教(=小乗)のスマナサーラ老師によれば、「大乗の空は、釈迦の教えをまとめたものにすぎない」となります。

2 般若系の次に登場する法華経の立場は?

法華経では、「一切の現象は存在するのでもなく、また空でもない。「実相」である」と説きます。
つまり、阿含と般若の両方を否定(=加上)して、法華経が一番正しいと主張しているわけです。

要は、俗な言い方をすると、「後だしジャンケン」ですよね。
そりゃ、後の世代が昔の学説を「あ~だ、こ~だ」と批判するのは、案外、簡単です。

こうして見てくると、仏教の学説や経典の成立過程の中に、「対抗意識」というか「相手を乗り越えてやろう」という人間臭い意図が見え見えです。

天才富永とその「加上説」のことを知ってから、各経典や各宗派の教えを極めて冷静に見つめることができるようになりました。
まあ、今東光大僧正の弟子ですから、特定の経典・宗派にはまることはありませんよ、昔から。

3 頓部楞伽の主張は?(四番目の華厳と、五番目の涅槃は割愛させていただきます)

頓部楞伽(=禅)では、「真理は言語によって語ることはできない。悟得すべきものである」と説きます。
なんか、「出た~」って感じがしませんか?
要は、これまでの諸説・経典(=すべて言語によるもの)を貶異(へんい=自説で他説を貶める=加上)しているのです。
「よく、言うよな~」と言いたくなりますね、こっちも。

当ブログの仏教ネタを読んでくれた常連さんはご存じのように、そもそも禅系統は、インド発祥ではありません。
支那の道教を基盤とした出家者の集団にそのルーツがあるとされていて、さらに、研究者によれば、禅宗の中核は荘子思想であることが実証されています。

インド由来でもないのに、なんか態度がデカいよな~と感じるのはブログ主だけでしょうか。
ただ、日本の禅僧には魅力的な人物が多いので、こちらも文句は控えます。(⇐結構、言ってるよ、ハハハ)

4 最後に登場した秘密曼荼羅(=密教)の言い分は?

秘密曼荼羅(=密教)では、「小乗や大乗など様々な方便が説かれているが、結局のところ、「阿字」を出ない」と説いています。(注 阿字とは、梵語の文字で、密教ではこの文字に特別な意義を認めて、宇宙万有を含むとしている)

つまり、自分たちが使っている文字に真理があると説き、従来の諸説・経典を低評価(=加上)しているのです。

密教の主張がそうなるのは、当然と言えば当然のことです。
なぜなら、当ブログでも取り上げたように、密教はバラモン教やヒンドゥー教の呪術的な要素を取り入れて生まれたわけですから。
密教成立以前の仏説を否定するのは、極めて自然なことです。

◎ ここまでの概観でわかるように、富永の指摘通り、大乗仏教の各経典・各教団は先行の経典・教説に「加上」して、自らが最高であると主張しているにすぎないのです。

要は、「後だしジャンケン」であり「マウントの取り合い」だとみて、ほぼ間違いはないでしょう。
富永の著書や彼の「加上説」によって、大乗仏教思想の舞台裏が白日の下にさらされた、と見なすのも可能だとブログ主は感じています。

ただ、このような裏話というか大人の事情は別にして、ある経典を高く評価したり、ある教団に魅力を感じることは当然ながら、自然なことだし、現実に行われていることです。

般若心経が最高であると主張する人に対して、「空」の思想を貶めるような発言などは決していたしません。
法華経こそ真理を説いていると考えている信者さんに向かって、「禅宗では『真理は言語によって語ることはできない』と説いてますよ~」などとチャチャを入れる気も毛頭ありません。
また、各経典や教説の優劣を判定しているわけでもありませんので、誤解なきように、お願いいたします。

ただ、「加上説」を知ることによって、大乗仏教思想の流れを冷静に見つめることができる、と考えているだけです。
成立過程の裏事情に通じることで、理信をもって、各種経典や各宗派の教えに触れることができる、と思うわけです。

さて、今回の記事を読んでいただいて、常連の皆様方はどのように感じましたでしょうか。
大乗仏教のややこしさ・難解さが少しはほぐれてきた感触を持っていただいたのではないでしょうか。
そうでなければ、ブログ主の力量不足ということですから、次回は、磯貝老師にご登場をお願いしようかな、とも考えています。

老師~、頼みますよ~、その際は。
ハハハ!