最近、磯貝老師との対話の中で、般若心経の「空」について、いろいろと話がでました。
しかしながら、他の常連さんから、「なんか、ちょっと、こんがらがってるよな~」との指摘が。
確かに、前回、磯貝老師から「空」に関する諸説が一気に紹介された感は否めませんね。
というわけで、今回は、老師が語っていた内容から、一つのトピックだけを採りあげましょう。
それが、タイトルにあるように、「空」=「諸行無常+諸法無我+一切皆苦」ってホント?、ということ。
さて、これは、初期仏教長老である、スマナサーラ師が説いているものです。
スマナサーラ師は、「大乗仏教では、無常・苦・無我を『空』という一つの単語でまとめることがあります」と語っています。
この件に関して、当ブログが誇る、磯貝老師から解説していただく前に、話題の中心となる概念を簡単に振り返っておきましょう。
◎「無常・無我・苦」は釈迦仏教の中心的な教えであるとされる。
*諸行無常=あらゆるものは絶えず変化し、移り変わっていく
*諸法無我=あらゆるものに不変の本質はない
*一切皆苦=煩悩の世においてはすべてが苦である
この三つをまとめたもの、つまり「無常+無我+苦」とワンセットにしたものが、大乗仏教でいう「空」の思想と等しい、と説明しているのが、スマナサーラ長老です。
スマナサーラ長老は、テーラワーダ仏教(=上座仏教=初期仏教=小乗仏教)に属する高名な老師です。
話をスッキリさせるために、再度、釈迦と入滅後以降の流れを以下で再確認しましょう。
◎お釈迦様の時代から、小乗仏教・大乗仏教成立までの大雑把な流れ
お釈迦さまが覚りを得た⇒お釈迦さまが直接、弟子に教えた時代⇒釈迦入滅⇒弟子たちが自分が聞いた釈迦の教えをまとめた
⇒釈迦入滅100年後ぐらいに、再度、弟子たちが釈迦の教説を整理しようとした(僧の間で教義上の議論が起きたため)
⇒これを契機に、教団は「上座部(じょうざぶ)」と「大衆部(だいしゅぶ)」に分裂した。
この上座部が後の「小乗仏教」のもととなり、大衆部が「大乗仏教」のもとになった。
*「小乗」という名称は、「大乗」側からの一種の蔑称である。
*従って、小乗ではなく、「上座(部)仏教」「初期仏教」「部派仏教」「テーラワーダ仏教」と呼ぶことも多い。
*何度も、名前が登場しているスマナサーラ長老はテーラワーダ仏教に属している。
◎第三者から見ると、大乗と小乗はお互いに自分たちのほうが上位だと主張している印象を受ける。
*小乗(上座部・テーラワーダ)は、自分たちこそお釈迦様の根本の教えを正しく受け継いでいると主張しているようだ。
*一方、大乗は「すべての民衆を救う」ことのできる「大きな乗り物」が自分たち(=「大乗」)だと唱えて、上座部を「小さい乗り物」=「小乗」と名付けて蔑視している。
上座部(小乗)が重視する経典は、当然、最も古いとされる「阿含(あごん)系」の経典群である。
大乗の場合、最も初期に成立したのが、「般若系」の経典群であり、「般若心経」は数ある般若経典のエッセンスをわずか二百数十文字でまとめたものだとされる。
般若経典が書かれたのは、釈迦入滅から数百年が経過して後のことである。
従って、釈迦在世のころに、般若心経が唱える「色即是空 空即是色」などという概念は存在しない!
それどころか、当ブログで何度も書いているように、そもそも、お釈迦さまは、お経を唱えたことなど生涯、一度もない!
◎ここまでの内容をふまえたうえで、最後に、我が朋友、磯貝老師から今回のテーマをまとめていただこう。
では、磯貝老師の生の声をお聞きください。
「そもそも、お釈迦さまは、世の中のことはすべてが「苦」であるという世界観から出発している。
そこから、さらに、一切の現象は絶えず変化しているし、あらゆる存在に変化しない本質はない、と考えるに至ったわけだ。これをまとめると、例の「諸行無常・諸法無我・一切皆苦」になるというわけ。
で、この釈迦仏教の中心的な教えを、上座部(小乗)はずっと大事にしてきた。
ところが、大乗からすれば、上座部を乗り越える、悪い言い方をすると、小乗をやっつけてやろうと考えるわけだ。
だから、あらたに、「空」の思想という新機軸をドーンと打ち出してきたんだよ。
大乗の般若経典のいう「空」とは、「一切の現象は実在しない。実在するとみるのは、人間の妄執である」と言いたいんだが、これが上座部を超えるための概念として設計されているんだ。
その理由は、小乗の経典「阿含系」が、「あらゆる現象は存在する」と説いていることにある。
つまり、小乗が事象の存在を認めているのに対して、大乗の「空」は、現象は存在しないと主張することで、「小乗の思想は誤りであり、大乗側が正しい」と主張しているわけだ。
さて、スマナサーラ長老はテーラワーダ仏教界の人間、要は、上座部(小乗)側に属している。
だから、当然、大乗の言い分をそのまま聞きたくはないだろう。
それで、スマナサーラ長老は、「大乗仏教では、無常・苦・無我を「空」という一つの単語でまとめることがあります」と発言したんじゃないかな。
スマナサーラ師は、上座部が大事にしている釈迦仏教の根本である「諸行無常・諸法無我・一切皆苦」を全部まとめたものを、大乗側が勝手に「空」と名付けているだけだと考えている。
俺がスマナサーラさんなら、もっとズバッとこう言うだろうな、『大乗の言う「空」なんて、新概念でもないし、上座部を超えるものでもないよ。お釈迦様の大事な教えである「無常・苦・無我」をまとめて別の名前を付けただけじゃないか。ふん、馬鹿馬鹿しい、そんな浅知恵で、上座部に勝ったつもりか、この未熟者め!』
ということで、後は、皆さんが般若系の「空」と釈迦仏教の「無常・苦・無我」が等しいと感じるかどうか、自分自身で思索してみてください。
ちなみに、俺は、「空=縁起」とする龍樹の説にほぼほぼ、同意しているけどな」
というわけで、今回も磯貝節が炸裂しました。
いつも、本音を語ってくれる磯貝老師には感謝の気持ちしかありません。
もちろん、「諸行無常・諸法無我・一切皆苦」にしても、「空」にしても、様々な高僧や専門家がそれぞれの解釈・見解を持っています。
ですから、磯貝老師の解説も一つの意見としてとらえてください。
追記
仏教思想について興味があるひとは、余裕のある時に、当ブログの「読書感想」を覗いてみてください。
その中に、『天才 富永仲基 独創の町人学者』という記事があります。
そこで、富永の「加上説」を簡単に紹介しています。
この「加上説」は、皆さんの仏教思想理解に大いに寄与してくれるのではないかと、思っています。
本当は、当ブログ記事よりも、直接この本を読んだ方がいいのですが、、、
著者は、釈 徹宗さんで、新潮新書の一冊です。