カヤネズミは可愛らしい。
自分の目で、直接見た野生動物の中では、最強に愛くるしい。
実に、イイ。
子供の頃、原っぱや河川敷で、巣は沢山見つけたが、実際にこのカワイ子ちゃんが中にいるのは稀だった。
それだけに、幸運にも実物に遭遇した時は、「やった~!」と叫んでいたほど。
先日、知り合いの獣医が街中で「動物ふれあい広場」を開催した。
そこで、数十年ぶりに、このカヤネズミちゃんと再会できた時は、涙が出そうだった。
本当に、心の底から、知人の獣医に感謝した。
しかし、、、、
しかし、冷静になると、本来はどこかの草原か休耕田あたりで、静かに暮らしていたカヤネズミを誰かが捕獲し、なんらかの経緯で、この獣医師の手元に届いたのだろう。
自然な生息環境から切り離されて、飼育ケース中で、申し訳程度に添えられたカヤの巣のそばで、目を閉じていた。
眠っていたのか、それとも、慣れない状況の中で、怯えていたのかはわからない。
獣医にとって、カヤネズミを安全に管理し、適切に飼育することは容易いことのようだが。
野生状態のカヤネズミには天敵も多い。
ヘビ、イタチ、カラス、モズなどに襲われたら、ひとたまりもない。
多くのカヤネズミが寿命が尽きるよりも先に上記の動物の餌食となるだろう。
一方、獣医の愛情のもとで世話を受けるカヤネズミは、多分、それなりに長生きするだろう。
(野生のカヤネズミの寿命は一年ぐらいで、飼育下では二~三年だという)
どちらが、この小動物にとって幸せなことなのか?
本人に聞いてみないとわからない。
ただ、一つハッキリしていることがある。
可愛いから野生のカヤネズミを捕獲して、家で飼いたいというブログ主の気持ちは、ただのエゴである。
同様に、カヤネズミを街中で展示して、子供たちにみせたいという獣医の熱意も、ただのエゴである。
しかし、この獣医のエゴから発した行為は、子供とカヤネズミのふれあいを可能にし、情操教育に一役買っていることは否定できない。
カヤネズミにとっては迷惑な話かもしれないが、人間にとってはうまみがある。
なんか、クドクドと書いているが、言いたいことは一つ。
人の動物保護・愛護の気持ちやペットを愛する心情は、すべてがその人のエゴから生まれている。
野生のオオカミを保護したいと願う人が、世間に向けて「オオカミを保護せよ」と発言するのである。
その発言者たちに政治力があれば、実際にオオカミの保護活動が行われる。
フンコロガシの大ファンが「日本の糞虫は希少だから、保護すべきだ」と声を挙げても、政治力や経済力がなければ、何もできないだろう。
幸い、カヤネズミの場合は、ファンも多いようだし、保護団体が存在するようだ。
家に、猫や犬を迎え入れる場合、去勢・不妊手術を施すことは、よくあることだ。
繁殖しすぎて適正に世話ができなくなる場合には、義務付けられているようだ。
知り合いの女性は、去勢も不妊についても気が回らなかったとの話で、一時期、マンションに十数匹のトイプードルが同居していたそうだ。
幸いと言うか、人気種だから、すぐに貰い手が次々に現れて、今では、数匹まで落ち着いているとのこと。
さて、ちょっとSFじみた空想をしてみたい。
もし、人類よりも遥かに知能が進んだ宇宙人がいて、人知れず人間を拉致して彼らの母星で飼育しているとする。
その際に、「増えると世話が面倒だな~」とかその宇宙人たちが考えて、管理下にある人間を去勢したり不妊手術を行ったりしたら、その当事者の人間はどんな気持ちがするだろうか?
また、逆に、「もっと増やしたいな~。人工授精にするか、それとも発情する薬物を投与するか~」などと宇宙人どもが企んだら、、、
人間は以上の空想科学小説っぽいことを、過去から現在まで、地球上の動物に対して行っている。
犬や猫の多様性は、人間による交配・品種改良から生み出されたものだ。
犬は、元々は、野生のオオカミだ。
家ネコの先祖は、リビア山猫だそうだ。
我々、人類が長い時間をかけて、様々な種類の犬種や猫種を人工的に創り上げたのだ。
すべてが、人間のエゴである。
保護や愛護の反対、すなわち、駆除や殺処分も同様に、人間の勝手な都合だ。
実は、「エゴ」も「勝手な都合」も同義である。
スズメバチは危険だから、駆除すべし、というのは人間のエゴ・勝手な都合だ。
ゴキブリは不快だから、どんどん殺そう、も人間側の勝手な都合・エゴだ。
スズメバチもゴキブリも、生物(=生命)である。
人間の勝手な都合・判断で、「こいつは殺していい」と決めているだけ。
結局、動物の保護・愛護も、駆除・殺処分も、それぞれの人間が自分の個人的な都合をもとに、勝手に賛成したり反対したりしているだけだ。
どこに基準をおくか、どこで線引きをするかを論理的・理性的に判断することは困難だ。
ただ、当ブログでは、常識的にみて、危険な動物が人間に危害を加える場合(その可能性も含めて)には、駆除せざるを得ないと考える。
いわゆる猛獣、有毒生物、病気を伝播させる生物などは、人間の福祉のために、管理できない場合は殺さざるを得ないと思う。
動物愛護の根底にあるのは、エゴであり、釈迦仏教的に言えば、「執着」である。
一部の熊愛護派のエゴ・執着のせいで、人命を失うわけにはいかない。
西欧の一部のオオカミ愛護派のせいで、人的被害を出して、良いわけがない。
狂信的な動物愛護派には、ぜひ、目を覚まして欲しいものだが、、、、
しかし、目が覚めないから「狂信的」な行動をとるわけだな、連中は。
この点に関しては、なかなか楽観的になることができない。
まあ、一種の現代病・文明病だろう。