教科書には載っていない「二・二六事件」の裏側 ~ 昭和秘史シリーズ

タイトルに「昭和秘史シリーズ」と入れたものの、第二弾があるかどうかは未定。
まあ、ブログ主の気分次第か。

まずは、誰もが知っているこの陸軍による反乱事件(一種のクーデター未遂)の概要を以下に

*昭和11年2月26日勃発(29日に平定)
*陸軍の青年将校を中心に約1500名が反乱を企てた
*当時の内大臣である斎藤実、大蔵大臣の高橋是清、陸軍教育総監の渡辺錠太郎の三人が襲撃を受けて即死
*侍従長であった鈴木貫太郎が重症

大体、以上が日本史の授業あたりで習うところであろう。
当ブログでは、あまり知られていない帝国海軍内部の動きと対応を中心に、秘史とも言える事実を紹介する。

◎ 実は、海軍の若手士官の一部が、陸軍の蹶起将校たちに同調しようとする動きがあった。

⇒山本五十六は当時、海軍航空本部長であった。
⇒その山本のもとにも、かなりの数の青年士官が訪れ、「陸軍が決行しました。われわれも、、、、、」と言い寄ってきたという。
⇒普段は温厚な山本が大声で怒鳴りつけると、その迫力に気圧されて、海軍士官らは退散したという。
⇒いざとなった時の、山本の凄まじい胆力を物語る逸話でもある。

◎ 実は、海軍は万が一の陸軍の謀反に備えて、かねてよりある程度の備えはしていた。

⇒海軍の横須賀鎮守府参謀長であった井上成美は、イザという時のために以下の手を打っていた。
・特別陸戦隊一個大隊を編成して、訓練しておく。
・砲兵二十名ほどを、いつでも横須賀鎮守府に集結できる体制を確立していた。
・軽巡洋艦「那珂(なか)」の艦長に、昼夜を問わず、いつでも芝浦に急航できる手はずを整えておくように指示。
・巡洋艦「那珂」は、宮中が危険になった時、天皇陛下を迎える艦にするつもりであった。

◎ 事件当時、海軍はいざとなったら、自前の兵力で陸軍を叩き潰す覚悟を持って、対応していた。

⇒事件の報を受けると、海軍横須賀鎮守府は即座に井上成美の指示のもと、厳戒態勢に入る。
⇒鎮守府司令部の前には土嚢が積み上げられ、巡洋艦「那珂」は命令一下、芝浦に急航する待機状態についた。
⇒鎮守府長官であった米内光政は、陸軍の蹶起部隊を「叛乱軍」と呼び、「今回の叛乱軍の行動は、絶対に許すべからざるものだ」と言い放ち、断固とした対応をとる覚悟を示す。
⇒宿毛湾に展開していた連合艦隊は、急遽、二手に分かれて、第一艦隊が東京湾へ、第二艦隊が大阪湾へ入った。
⇒東京湾上の第一艦隊所属の戦艦部隊は、主砲の照準を霞が関の議事堂に合わせた。
(陸軍叛乱部隊は、霞が関や永田町の一帯を占拠)
⇒戦艦群の旗艦「長門」は、当時、世界最大・最強の戦艦であり、その40センチ主砲の威力は絶大!
⇒もし、この時、長門の主砲が火を噴いていたら、議事堂は叛乱軍もろとも、三発で跡形も無くなっていただろう。

◎ 昭和天皇は毅然とした態度をとられた

⇒陸軍上層部の対応の遅さにしびれを切らした昭和天皇は、「朕、自らが近衛師団を率いて、叛乱軍を鎮圧する」とまで仰せられた。

◎ 重傷は負ったが、一命を取りとめた鈴木貫太郎

⇒山本五十六の手配した軍医から緊急手術を受け、銃弾を三発ほど摘出された鈴木貫太郎であった。
⇒ところが、さらに詳細に検査すると、鈴木の陰嚢がボールのようにふくらんでいた。
⇒なんと、四発目の弾丸が下腹部の骨盤の上に留まっていたため、内出血を起こしていたという。
⇒この担当医師は、手術後に「鉛玉、金の玉をば通しかね」という冗談のような句を詠んだ。
⇒この奇跡的に生還した鈴木が、それから9年後に総理大臣として戦争を終結させる役割を担うのだから、歴史というものは不思議というか興味深いというか、、、

◎ おわりに

いかがでしたか?
もし、「全部、知ってたよ」との感想なら、それは当方の力量不足。
次回の『秘話シリーズ』(ん? 次回があるかな?)は、もっと頑張るつもり。

追記
叛乱の中心となった青年将校の背後関係や当時の世相など、まだまだ詳しく書こうとするきりがない。
また、機会があれば、「二・二六事件」を再度、記事のテーマにする可能性もあり。