日本史上の「男系女性天皇」 ~ 今回は推古天皇

日本には、八方十代の「男系女性天皇」がいらっしゃった。

推古
皇極(斉明)
持統
元明
元正
孝謙(称徳)
明生
後桜町

*(   )内は重祚

最近、愛子さまの絶大な人気を反映してか、女性天皇についての議論(?)が賑わっているようだ。
ただ、男系か女系かの論点をなおざりにして、発言する人が多い印象を受ける。
(もちろん、愛子さまは「男系」である)

周知の通り、日本の女帝は全員が「男系」である。
今回は、最初の女帝である推古天皇について。

◎ 推古天皇(554~628年)

⇒欽明天皇の皇女であり、敏達天皇の皇后。
⇒第三十三代天皇であり、在位期間は592~628年。

◎ 推古女帝即位の背景

⇒敏達天皇が崩御した後、弟の用明天皇が即位する。
⇒その用明天皇も、まもなく崩じたので、弟の崇峻天皇が即位する。
⇒その崇峻天皇は、蘇我馬子により暗殺された。
⇒このように政治が混乱していたため、周囲から即位するように求められたのが推古天皇である。
⇒推古天皇即位により、皇位継承を巡る争いが回避された。
(当時、皇位継承争いに、蘇我氏や物部氏がからみ、諍いが続いていた)

*再度、以下の事実を強調しておきたい。
⇒(正)皇位継承の候補者が多すぎて混乱していた政局を安定させるために、推古天皇が即位した。
⇒(誤)男子の継承者が不在のために、皇太后が女帝として即位した。

◎ 推古天皇といえば、聖徳太子(厩戸皇子)

⇒厩戸皇子は用明天皇の第二子である。
⇒592年、厩戸皇子は皇太子として、蘇我馬子とともに、推古天皇を補佐した。
⇒603年、冠位十二階の制定。
⇒その十二階とは、大徳、小徳、大仁、小仁、大礼、小礼、大信、小信、大義、小義、大智、小智であった。
⇒憲法十七条の制定。
⇒『三教義疏』を著した。
⇒三教義疏とは、『法華義疏』『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』の三つである。
⇒『天皇記』『国記』などの国史を編纂した。

◎ 推古天皇と言えば、遣隋使

⇒607年、小野妹子を隋に派遣した。
⇒ちなみに、妹子の冠位は「大礼」である。
⇒妹子は、隋の客使裴世清(はいせいせい)とともに帰国した。
⇒裴世清は、隋の煬帝の新書を推古天皇に手渡す。
⇒隋との良好な外交関係が成立。
⇒高向玄理(たかむこのくろまろ)、南渕請安(みなぶちのしょうあん)、新漢人日文(いまきのあやひとにちもん)らの留学生や学問僧たちが大陸へと渡った。

◎ 推古朝の終焉

⇒622年、推古天皇の右腕であった聖徳太子(厩戸皇子)が、斑鳩宮に薨去。
⇒すかさず、蘇我馬子が台頭し推古女帝との間に確執・対立が生まれる。
⇒ちなみに、推古天皇の母は蘇我稲目の娘であり、蘇我馬子は女帝にとって叔父にあたる。
⇒626年、蘇我馬子も死去したために、朝廷は政治の担い手を失うことになる。
⇒628年、推古天皇は75歳で崩御。