今回は、旧帝国海軍の三人の軍人をごく簡単に紹介します。
対米英戦争に最後まで反対して、日本を護ろうとした識見のある人物たちです。
さて、タイトルに「左派」とありますが、これを現代の「左翼」と同一視しないでください。
今の左翼やリベラルは、ただただ能天気でお花畑思考の皆さん方です。
戦前に「海軍左派」と言われた将軍たちは、教養と識見を持ち大局的な判断ができる人物です。
では、具体名を以下に挙げていきます。
山本五十六、米内光政(よない みつまさ)そして井上成美(いのうえ しげよし)。
山本元帥に関しては、すでに一度、当ブログで紹介しておりますので、皆さんもご存じの事でしょう。
米内光政大将と井上成美大将について、細かく言及するのは、今回は避けます。
それよりも、この三人がどのような考えを持っていたのかを、主に肉声を紹介することで見ていきたいと思います。
◎ 米内光政(1880~1948年)海軍大将、連合艦隊司令長官、海軍大臣、内閣総理大臣
戦前、米の将校で戦史研究家にマハンという人物がいました。
日本の若い軍人たちも、このマハンに影響を受けて、「太平洋を制する者が世界を制す」とか「力は正義なり」とかの文言を入れた文書やレポートを提出していました。
それを読んだ米内提督が、その報告書を不可として、その理由を以下のように説明したそうです。
「ものの本にどうあろうと、力すなわち正義ではない。日本の海軍は常時強い力を蓄えて正義の後ろ楯となるべきものであるけれども、此の力が正義そのものだと思ってはならない」
◎ 井上成美(1889~1975年)海軍大将
井上が生前語った発言の中から
「アメリカ、イギリスとの軍備の比率は低い方がいい、戦をすれば負けるから、なんとか外交でしのいでいかなきゃならん、(中略)自分よりも技術が進み、富もあり、人口も沢山ある、土地も広いという国があるということは仕方がない。もがいたって、これを脱けるわけにはいかない。その中で、無理をしない範囲で立派な国になっていく方がいいんではないか、そういう風に考えた」
「戦はしない方がいい。(中略)国の存立のためには立つ。国滅びるというのなら、国が独立を脅かされるときには、とにかく立つ。そのためには、軍備というものが必要だ。国の生存を脅かされ、独立を脅かされた場合には立つ。その代わりに、味方をつくっておかなければならない。正々堂々の主張をするならば味方ができる、とわたしは考えています」
*米内も井上も、抑止力としての軍備の必要性を十二分に認識したうえで、こちらから好戦的な姿勢を示さないことや味方をつくること(=他国との安全保障)を重視した考え方です。
◎ 三人の良識派は「日独伊三国軍事同盟」に反対した
米内、山本、井上の三人が軍政の中枢にいたころは、日独伊三国軍事同盟は締結されませんでした。
昭和14年、米内が海軍大臣、山本が海軍次官、井上が軍務局長をそれぞれ務めていた時、三国同盟への動きに徹底的に反対して、その流れを潰します。
しかし、昭和15年に再び、三国軍事同盟への交渉が活発化した際には、三人の良識派は海軍の中枢を担ってはいませんでした。
米内は、同年1月に内閣総理大臣に就任しましたが、陸軍の画策で7月に米内内閣は総辞職に追い込まれます。
山本は、連合艦隊司令長官に任命されたために軍政を離れることになり、海上へと赴きます。
井上は、支那方面艦隊参謀長となり、大陸にいました。
この隙をぬって、昭和15年9月に、日本は「日独伊三国軍事同盟」に調印します。
この同盟締結が、日米関係を決定的に悪化させ、結果的に日米戦争につながったと言えます。
ちなみに、昭和天皇や枢密院も同盟締結に反対の立場でした。
◎ 今後も明治から昭和の戦争史に関する話題を提供できたら、、、
現代の日本人の多くは、「戦前の日本の軍人は皆、好戦的で侵略的で、とにかく、よろしくない」などと考えているのではないでしょうか。
はっきり言って、それは大きな誤解です。
今回、紹介した三人の海軍良識派以外にも、優れた人格者が沢山いました。
また、何かの折に、少しずつ言及することができればいいな、とは思っています。