さて、今回は旧帝国海軍ネタです。
まあ、先日、山本元帥の逸話を紹介しましたので、海軍ネタの第二弾ということになりますかね。
では、始まり、始まり~。
かつて、海軍航空隊では、ひとつの大きな問題に上層部が頭を抱えていた。
それは、軍用機乗りの適性検査の件であった。
飛行予科練習生や飛行科予備学生でも、採用の際に学力試験や身体検査に加えて、海軍なりの適性検査を行っていた。
それでも、半年も経過してから、「適性ナシ」と判断される者が続出した。
海軍は、東大の心理学教室に依頼して、実験心理学による適性検査も導入していたが、初めはよくても、時がたつと腕が向上しない場合も多々あった。
実験心理学は、「成長性」に関しては分析できないのではないか、との意見も出た。
そのころ、山本五十六の八期下の大西瀧治郎という大佐が航空本部の教育部長を務めていた。
その大西が、知り合いに手相や骨相の研究家がいるとのことで、海軍に紹介してきた。
その人物の名前は、水野義人という。
水野は大学の歴史科を卒業しており、卒業論文は「太占(ふとまに)について」というもの。
実際に、海軍に出向いた水野の鑑定の腕前は、、、、、
⇒海軍航空隊の教官教員、百数十名の手相と骨相で見極めて、適性を甲乙丙の三段階で判定するよう指示された水野。
⇒水野は一人あたり、5~6秒、凝視してから、次々に甲、乙、丙をつけていった。
⇒水野の判定と海軍の名簿に記入された各自の技量の記録を照合してみた。
⇒なんと、的中率は83%であった。
航空隊の指導部は驚嘆した。
自分たちが何年間もかけて、甲や乙などと判別したものを、水野は一人につき数秒で判断して、80%以上の確実性で同じ結論を出してしまったのだ。
驚異を感じた航空隊幹部たちは、次に、飛行練習生を集めて、同様に水野に観相を行わせた。
その結果は、驚くなかれ、87%の的中率であった。
この結果に満足した大西瀧治郎が、山本五十六に連絡をとった。
後日、山本は海軍関係者を20名ばかり集めておいて、水野にその中から飛行将校だけを選ぶように指示した。
結果は、優れた戦闘機パイロットのみを水野が選抜した。
こうして、水野は海軍航空本部嘱託という正式の辞令をもらった。
その後、水野は霞ケ浦航空隊の採用試験の際に、必ず立ち会って、応募者の手相・骨相を観たのである。
ただし、もちろん、学科試験と身体検査も行われていた。
従って、学科試験が「甲」で身体検査も「甲」で、水野が適性を「甲」と判定した応募者が優先されるという方式であった。
水野の仕事は徐々に忙しくなっていき、助手を二人連れて、各地の航空隊に出張して回るまでになった。
最終的には、謄写版のインクでとった手相まで観るはめになったという。
終戦までに、総計で23万数千人の応募者を対象に、飛行機乗りとしての「適」「不適」を判断したとされる。
水野の活躍には、大西が彼に興味を持って、実際に実力を試してみたことが契機となっている。
それに、大西の上司であった山本五十六が柔軟な思考の持ち主であった事実が大きな貢献をした。
ギャンブル全般に強かった山本には、なにかピンとくるものがあったのであろう。
今回は、ウソのようなホントの話。
水野は、戦後もいろいろな場面で腕を振るっているが、それは、またの機会にでも。
追記
大東亜戦争に詳しい人には、「大西瀧治郎」という名前は馴染み深いものだろう。
今回は、この海軍軍人を紹介するものではないので、これ以上の言及はしない。