なぜ、戦後の日本は米英中ソによる分割占領統治を免れたのか?
⇒アメリカが単独統治する決定をしたからである。
なぜ、アメリカは単独統治を望んだのか?
⇒ソビエトに日本領土を割譲したくなかったからである。
なぜ、アメリカの意向が通ったのか?
⇒対日勝利にはアメリカの貢献が一番大きかったからである。
⇒加えて、当時、原爆を所有するのはアメリカ一国だったからである。
(つまり、「外交=軍事力」という単純な図式である)
さて、以上が今回の記事の骨子である。
(お忙しい方は、ここでストップ)
時間の余裕のある方は、以下に細かく見ていくので、最後までお付き合いのほどを。
◎1945年2月 ヤルタ会談
チャーチル(英)ルーズベルト(米)スターリン(ソ)による首脳会談で戦後処理についての協議を行った。
この際に、秘密協定としてソ連の対日参戦が決定された。
当時、日本とソ連は中立条約を結んでおり、ソ連の対日参戦は掟破りとなるのだが、米の参戦要求に対してソビエトは以下の条件を挙げた。
*戦後、日本からの領土回復
*支那における権益の回復
上記の条件を米英は了承した上で、蒋介石が会談に参加していなかったので、これを秘密とした。
ついでに付記すると、この時点ではまだドイツは降伏していない。
◎米大統領がルーズベルトからトルーマンに
1945年4月にルーズベルトが急逝し、副大統領であったトルーマンが大統領を引き継ぐ。
ここで、トルーマンは前任者が決めたソ連との協調路線を継続できるのか、検討しなければならなかった。
ヤルタ会談後に、米ソ関係は急激に悪化していったからである。
ソ連の対日参戦が対日勝利に大きく貢献することになれば、戦後のソ連の発言力が増すことになる。
すると、当然、ソ連に日本領土を割譲することになり、日本分割統治につながってしまう。
日本打倒にソビエトがあまり関わっていなければ、アメリカの単独統治が可能となる。
以上のような思惑を抱えながら、日々変化する状況の中で、トルーマンは最善策を模索していた。
◎1945年7月16日の電報とポツダム会談
7月16日、トルーマンのもとに一通の電報が届いた。
「極秘、至急、陸軍省、32887号、今朝オペレーション完了。診断は、まだすまぬが、結果は満足すべきものがあるとみられ、すでに期待を上回っている」
原爆実験成功の知らせであった。
これを知ったチャーチルも、回想録の中で以下のように書き残している。
「7月17日、世界を揺るがすようなニュースが入った。
午後、スチムソンが私の宿舎を訪れ一枚の紙を置いた。
それには『赤ん坊は申しぶんなく生まれた』と書かれていた。
我々はロシアを必要としなくともよくなった。
我々は彼等の助力を乞う必要はなくなった」
トルーマンはソ連の力を借りなくとも、日本を降伏させる切り札を手にしたのである。
7月17日から8月2日まで、ベルリン郊外のポツダムにおいて米中ソの首脳会談が行われた。
トルーマンは秘密兵器を得て、会談で強気に出たが、スターリンもなかなか譲ろうとしなかった。
すでに、この頃から「米ソ冷戦」が始まっていたとも言える。
◎ポツダム宣言とその後
7月26日、日本に対する無条件降伏を勧告する「ポツダム宣言」が出された。
⇒日本は受諾せず。
8月6日、広島に原爆投下。
8月9日、長崎に原爆投下。
同日、ソビエトによる対日参戦。
8月15日、日本軍(日本政府ではない!)は無条件降伏した。
(これに関しては、細かい点が多々あるので、またの機会に)
◎結局、アメリカの思惑通りに
ソビエトの対日参戦は8月9日であり、すでに大勢は決した後であった。
アメリカがソビエトに遠慮する必要はなかったのである。
強欲なスターリンは、8月16日にトルーマンに対して、北海道の北半分を要求してきた。
これを、トルーマンは断固として拒絶した。
こうして、日本は分割統治を免れたのである。
◎おわりに
今回で「日本分割占領計画」シリーズは、とりあえず完結とする。
意外にも、常連の皆さんの間でかなり好評であった。
コメントをくださった方々に感謝したい。