ちょっと前に、カンニング竹山氏の「古文が人生で一度も役に立ったことがない」との発言がネット上でいろいろ取り沙汰されてました。
まあ、台本通りのセリフなのか、竹山氏のホンネなのかは定かではありません。
もし、心底そう思っていたとしたら、「古典って結構、面白いですよ。試しに読んでみませんか」と言いたいですね。
まあ、直接会う機会なんて、ありそうにないけど。
竹山氏の言う「役に立たない」は、仕事に直結しないという意味なのか、もっと端的に、お金にならないという含みなのかは不明です。
確かに、お笑いの人に『源氏物語』や『徒然草』や『おくのほそ道』が縁でオファーが来ることはなさそうですが、、、
でも、待てよ、芸能人が出演するクイズ番組などで、古典がネタになることもありそうですよね。
例えば、『枕草子』とか『土佐日記』とかの作者を尋ねる問題なんか考えられそうですけれども。
となると、仕事の中で古典と関わる機会もひょっとしたらあったりして、、、
竹山氏の「役に立つ」の定義がハッキリしないので、なんとも言えない部分は残りますが、古典擁護派として少しばかり思うことを書きたいと思います。
まず、こちらの主張は、古典作品に見られる人間の生々しいホンネがおもしろいということ。
以下に具体例を少々。
◎紫式部は毒舌で言いたい放題!
『源氏物語』でお馴染みの紫式部。
この才媛の『紫式部日記』から、ライバル(?)である清少納言への容赦ない批判をご覧あれ。
(専門家による口語訳をさらにくだけた言い回しにしています)
*「清少納言ときたら、得意げに漢字を書き散らしていますけど、学識はたいしたことないんですよ。
とにかく、人とは違うことを目指しているだけで、最初のうちは目立つかもしれませんが、結局はただの変な人で終わってしまいます。
ああいう「風流人」を気取っている人は、何を見ても「素敵」とか「凄い」とか言えばいいと思っていますから、自然に周囲から浮いてしまって共感も得られなくなります。
清少納言のような中身のない人の末路は寂しいものになるでしょう」
*この辛辣な批判を読んだうえで、『枕草子』に目を通してみると、紫式部が鼻についた箇所はどこだろうか、などと思ってしまいます。
実は、紫式部の旦那の悪口を実名で『枕草子』で書いたことが清少納言への攻撃の原因とも言われていますが。
『枕草子』第119段の中で、藤原宣孝という貴族を痛烈に批判しています。
この人物が、後に紫式部の夫になるというわけ。
「うちの旦那の悪口をよくも書いてくれたよな」との反発心でしょう。
*道長を巡る確執か?
紫式部の清少納言への敵意の正体は、「嫉妬」であるとする説もあります。
それは、藤原道長をめぐってのもの。
どうやら、清少納言は道長と親密な関係にあったようですが、一方の紫式部にとっても道長はパトロンのようなものでした。
夫の悪口を書かれたことと道長をめぐる争い(?)が相まって、紫式部の過激な物言いにつながったのかもしれません。
しかし、この二人の女性は直接の面識はなかったのでは、とする研究者もいます。
◎では、清少納言の「感性」を皆さんがどのようにとらえるか、以下をお読みください。
*「台風の翌日はとてもしみじみと趣きがあって素敵。
立蔀(たてじとみ⇒衝立のようなもの)や透垣(すいがき⇒板や竹の間を少し透かせてつくる垣)などが乱れて、前裁(せんざい⇒庭先の植え込み)の花々もたいそう痛々しい。
大きな木々も倒れ、枝などの吹き折られたのが、萩や女郎花のなどの上に横倒しになっているのはあんまりだ。
格子の目などに、木の葉をわざわざしたように一つ一つ丁寧に吹き入れているのは、荒々しい風の仕業とも思えない」
以上は、『枕草子』第191段の出だし部分の口語訳です。
台風の翌日が素敵、、、、まあ、ブログ主の感想は「ノーコメント」ということで。
◎古典は我々日本人の感性・知性・情緒・思考の記録です。
『紫式部日記』にしろ『枕草子』にしろ、今から約1000年前の日本人が綴った文章です。
簡単に「1000年前」などと言ってますが、これは改めて考えるととてつもなく凄いことだと思いませんか。
アメリカの歴史などは、わずか250年ぐらいですからね。
遥か昔の日本人の感じ方・考え方に触れることができる。
それが、古典作品を読むという行為です。
竹山さん、あなたの言う「役に立たない」の本意がハッキリしませんので、なんとも言えないところも大きいのですが、、、
騙されたと思って、ちょっとだけでも古典作品のページを繰ってみませんか。