やりたい放題やりやがって(怒) ~ ポルトガルと教皇の悪行三昧!

史上最低・最悪のローマ教皇アレクサンデル六世が1493年に定めた「教会子午線」の改訂版である1494年の「トルデシリャス条約」というお墨付きを勝手に自分たちで自分たちに与えたスペインとポルトガル。

ホント、この連中ときたら、「世界は俺たち中心に回っている」史観の持ち主だから、質(たち)の悪さは天下一品!
今回も、西欧の傍若無人・悪逆非道ぶりを紹介します。

さて、先にアップした記事で、悪名高きアレクサンデル六世の名前を出しましたが、実は、もう一人いるんですよ。
教皇シクストゥス四世というのが。

◎1481年の教皇布告⇒ポルトガルのアフリカ侵略⇒奴隷貿易

教皇シクストゥス四世が、「アフリカ大陸北西沖のカナリア諸島より南の新領土は全てポルトガルに与えられる」という内容の布告を出します。
勝手なことしてくれますよね~、教皇って!

これに勢いを得たポルトガルはアフリカ大陸に進出し、ガーナ(アフリカ中部)に城塞(後のエルミナ要塞)を築きます。
そして、ここを拠点にして、金や奴隷の貿易を開始。
16世紀中ごろまでのアフリカ黒人貿易はポルトガルの独壇場だった模様。
黒人奴隷はヨーロッパに売り飛ばされるか、アフリカや他の地域の砂糖農園で強制労働に従事させられたのです。

ブログ主の想像ですが、当時の教皇はキリスト教徒を増やす(教会勢力拡大=教会に金がジャンジャン入ってくる=私腹を肥やす)ためなら、何でもするタイプが多かったんでしょうね。
こういう欲にまみれた俗物が教皇ですから、ニーチェが「キリスト教は邪教です」と言うのもうなづけますよ。

◎その後のポルトガルの動き(悪行)

*1485年
国王ジョアン二世の命を受けたディオゴ・カンがアフリカ大陸南部に到達しました。
このカンはポルトガルがアンゴラを植民地化するきっかけを作った人物です。
アンゴラにとっては、いい迷惑ですよね。

*1498年~
ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を越えてインドのカリカッタに到達しました。
このガマが開拓した航路をたどって、ポルトガルはインドを侵略し、カリカッタやゴアを占領します。
これらの港湾都市をアジア支配のための拠点とするのです。
ほんとに、やりたい放題ですよ。

それまでは、インドの港は自由港として繁栄していましたが、すべてポルトガルが武力で支配しました。

*1510年
ポルトガルは34隻の大艦隊でゴアを攻略し、占領します。
ゴア側にはオスマン帝国の援軍がいましたが、それも降伏させます。
さらに、当時ゴアにいたムスリム(イスラム教徒)を老若男女問わず、皆殺しにしました。

*1511年
この年にポルトガルはマレー半島のマラッカまで進出します。
当事のマラッカは数十もの言語が飛び交う、まさに東西交易の中心地でした。
この重要な海洋拠点を、大艦隊を率いたポルトガルが襲い、マラッカ王宮を十日間攻撃した後に占領しました。
その際に、同地に居たアラブ商人(=イスラム教徒)の全員を虐殺します。

アラブ人ムスリムはキリスト教と対立していましたし、ポルトガルとアラブ勢力は香辛料貿易の面でも争っていたからです。
とにかく、「邪魔者は消せ」がポルトガルのやり口です。

*その後、ポルトガルは南シナ海にも触手を伸ばし、明の商人と密貿易をしたり、明の軍と小競り合いをするなど、相変わらずの勝手し放題。
ところが、ひょんなことから(明の依頼で明人の倭寇を撃退した)、マカオへの上陸を明から許可されます。

*1557年
明がポルトガルのマカオ居留を認めたので、ポルトガルはこの地に要塞を築きました。
マカオを手中にしたポルトガルは、貿易やイエズス会の布教の拠点を確保したことになり、その後の活動(悪行)に弾みをつけることになります。

あ、これより少し前の1543年にポルトガル人の乗った船が種子島に漂着して、日本に鉄砲(火縄銃)を伝えますから、もうすでにこの時期から日本近海に出没して海賊行為などをガンガンやってたということですね。

ちなみに、種子島に流れ着いたこの船は明の倭寇の頭領・王直のもので、当時ポルトガル商人と倭寇がタッグを組んで貿易・略奪・海賊行為に励んでいたことを物語ります。

◎ここで、ちょっと脱線。 え、倭寇って日本人海賊じゃないの?
倭寇は最初の頃は日本人が主体で、一部は高麗人でした。
ところが、時代が下がると、支那人が多数派となり、日本人は少数派と構成率が入れ替わります。
また、前述したようにポルトガル人とも連携しますので、名称は「倭寇」ですが、注意が必要です。
支那人を中心とした混成部隊であるにもかかわらず、「倭寇」といまだに呼ばれているのがチョット不本意ですが、、、

◎脱線ついでに、史上最低・最悪の教皇アレクサンデル六世(1431~1503年)のことを少し
・スペイン出身で、ボルジア家の出。
・ボルジア家と言えば、権謀術数や政敵の毒殺などで悪名高いのはご承知の通り。
・数えきれないほどの愛人を持ち、子供はわかっているだけで7人。
・息子チョーザレ・ボルジアも愛人の子と言われております。
・一族を教皇庁の要職にとりたてたり、領主の地位につけたり、娘は有力者に嫁がせたり、身内びいきの塊のような俗物です。

・教皇選挙の前に、買収工作をして票を買った結果、全会一致で選出されますが、その工作費用の出どころは教会の財産であったといいます。
・愛人を堂々とヴァチカンの中で囲って、家庭生活(?)を送るという面の皮の厚さ。
・証拠は不十分ですが、殺人の疑いもあるほど底知れない残忍さも持っていました。
少なくとも二人の枢機卿がこの暗黒教皇から毒殺されたという説があります。

*今回はこのへんで
本来ならば、教皇アレクサンデル六世ネタはスペインの悪行とセットで記事にしようかな、と思っていました。
教皇がスペイン出身だからです。
でも、なんか脱線ついでにこの悪党の方へ指が滑ってしまいました。
まあ、計画性がありませんので、、、