さて、浄土教系も密教系も取り上げましたので、今回は「禅」といきますか。
では、曹洞宗に登場願いましょう。
◎日本における曹洞宗の宗祖は道元(1200~1253年)
わざわざ、「日本における」としたのは、曹洞禅は中国発祥だからです。
比叡山や園城寺で学び、天台教学を修めました。
その後、建仁寺(臨済宗)にて栄西(臨済宗祖)の弟子である明全に師事します。
◎南宋に渡る
師の明全とともに、南宋に渡り、如浄禅師と出会います。
道元は如浄を生涯の師と仰ぎ、座禅修行に励みます。
そして、ついに悟りの境地を認められ印可証明を受けます。
◎帰国
まず、京都に興聖寺を開き、後に越前(福井県)の山中に傘松峰大仏寺(のちの永平寺)を建立します。
◎道元の主要著作は『正法眼蔵』
◎曹洞宗の座禅は「只管打坐 しかんたざ」
只管打坐とはただひたすら座るということです。
座禅をする姿そのものが「ほとけの姿」であり、悟りの姿であると曹洞宗では説いています。
◎さて、ここからは細かいこと(本質的なことかも)をいろいろと足していきます。
*そもそも、「禅」とは?
「禅」という言葉(漢字)は、サンスクリットの「ジャーナ」を漢字音訳したものであり、「ジャーナ」の意味は瞑想のことです。
瞑想は、本来の仏教でも広く行われてきた修行法であり、「禅定 ぜんじょう」の漢字を当てたりもします。
伝説によれば、お釈迦様は菩提樹の下で座禅を組んで瞑想を行い、その結果、悟りを得た(=真理に目覚めた)とされています。
*本来、瞑想そのものは宗教ではなく、修行(法)であり、悟りを得るために行う実践行為です。
従って、本来ならば禅が「~宗」と名乗り、教団を形成・維持するのは少々不思議な感じがするのですが、、、
*この禅の不思議さ・不可解さの原因は、禅の出自にあります。
実は、禅はインド発祥の大乗仏教ではなく、支那で生まれた仏教(?)なのです。
だから、他の宗派と違って、いわゆる「根本経典」を持ちません。
*では、禅の正体は何なのか?
専門の研究者によれば、禅の中核思想は、支那の道教(=荘子思想)であるとされています。
すなわち、「禅=大乗仏教(の修行法である瞑想に特化)+道教(荘子)」ということです。
道教を基盤とした出家者の集団が支那に存在し、それが本来の釈迦仏教の修行のひとつである「禅定」と結びついて、仏教集団となった、というのが専門家の見解です。
*なぜ、荘子思想が関係するのか?
インド由来の大乗仏教は、支那にとっては外来の宗教・思想です。
その大乗仏教の「空」の思想を理解するために、在来の思想である荘子の「無」を当てはめて解釈した、と専門家は説明しています。
*禅は大乗仏教に分類されますが、その本質は上座部(小乗)に非常に近いものです。
禅の目的は「悟ること」ですから、お釈迦様の仏教(初期仏教、根源仏教)の目指すところと同じです。
釈迦入滅後数百年後の支那起源の仏教(?)でありながら、インド発祥の本来の釈迦仏教に先祖返りしたような性格を持つ特異な存在と言えます。
追記
*禅僧には魅力的な人物が多い。
日本で、一人挙げろと言われたら、即座に「一休さん」(=一休宗純)と答える人は沢山いると思います。
もちろん、ブログ主もそうです。
あの今東光大僧正も一休禅師を尊敬し、著書の中で絶賛しております。
ただ、一休さんは臨済宗ですが。