さて、磯貝が指摘する「奥州藤原氏を語る際の三つの観点」のうち、人類学的な面と政治的な切り口を対談で紹介した。
今回は、いよいよ文化の面から平泉の魅力を考えていこうと思う。
今日も、我らが磯貝、気合十分の様子だ。
磯貝:さあ、今日は平泉が創り上げた文化をテーマにやろうじゃないか。
ブログ主:存分に語ってくれよ。
磯:おう。「五月雨の降り残してや光堂」って松尾芭蕉が詠んだのは、金色堂が建てられてから600年後のことだな。それから、更に300年、昭和43年に六年の歳月と巨費を投じた解体修理で金色堂は創建当時の姿によみがえったんだけど、その際に驚くべきことがわかったんだよ。
ブ:どんどん紹介してくれ。
磯:まず、七宝荘厳の巻柱の螺鈿細工に使ってある貝が、なんと、日本近海のものじゃなかったんだ。夜光貝が必要だったんだけど、もう屋久島の近海では採れなかったから、南洋まで行く必要があってな。大変だったらしい。
ブ:具体的にどうしたんだ?
磯:沖縄の漁師をニュージーランドとかニューギニアの海に入ってもらって採集してきて、それを材料にして螺鈿を作って復元したんだよ。それから、須弥壇に象牙が使われていて、破損した部分の修復をするときによく調べたら、アジア象じゃなくてアフリカ象の象牙。なんか、凄いよな、あの当時の東北地方とアフリカがつながっていたなんてな。
ブ:いや~、スケールの大きい話だな。
磯:当時の中尊寺は圧倒的だぞ。堂塔40余り、僧坊300,大金堂、多宝塔、それに金色堂。さらにだな、白河の関から外ヶ浜に至る道には、一町ごとに金色の阿弥陀仏を描いた笠卒塔婆が立てられていたと言われている。まさに、仏国土だな。
ブ:今日も絶好調だね~、続けて、続けて。
磯:だいたいだな、金色堂ひとつとっても初代清衡が16年の歳月を費やして完成させたものでな、内外すべて黒漆を塗って、金箔を押しているんだぞ。北上川をのぼる鮭が、その金色に目がくらんでそれ以上上流にのぼれなかったという伝説を生んだほどだよ。
ブ:あのな、質問だけど、マルコ・ポーロの言う「黄金の国ジパング」というのは、もしかして平泉のことか?
磯:おそらくそうだと思う。金色堂を実際に見た人間からの伝聞が宋や元に伝わっていたんだろうな。そこからの情報がマルコ・ポーロの耳に入ったと考えていいと思う。
ブ:実際、あの当時の平泉の財力は莫大なものだったんだろうな。
磯:そりゃそうだよ。二代基衡が造営した毛越寺の金堂に安置する薬師如来像はあの名工の仏師運慶に依頼したものでね。その謝礼として基衡が運慶に渡したのは、金100両、鷲の羽100尻、アザラシの皮60余枚、安達衣1000疋、希婦の細布2000端、駿馬50疋、、、、
ブ:おいおい、気が遠くなってくるよ、あまりの豪勢さに。それに今回も磯貝がソートー気合入ってるから、、、
磯:「喉がカラカラ、飲みたくなった」はまだ、だめだぞ。
ブ:ばれた?ハハハ。
磯:なんか、俺ばっかり話しているな。そっちから言いたいことは無いのか。
ブ:そうだな~。何年か前に、某博物館の『最澄と天台宗のすべて』という特別展に行ってきてね、そこで見た写本一切経が豪華絢爛で強烈に印象に残っているよ。初代清衡の発願による紺紙金銀字交書一切経、それから三代秀衡の発願とされる紺紙金字一切経を展示していたけど、凄かったな。
磯:あれだな、紺紙に銀泥で界線を引いて、清衡経は金泥と銀泥を使って交互に一行ずつ書写したもの。秀衡経の方は金泥で書写しているよな。
ブ:それだよ。あの見事さときたら、並ぶものがないよな。大昔の銀なのに酸化してないし変色してないし。
磯:まさに日本仏教美術の至宝だよな。ところが、あの悪名高い殺生関白秀次がな、南部の九戸氏征伐の帰りに中尊寺に寄って金銀交書経をどっさり持って帰りやがったんだよ。ひどい奴だね、あいつは。
ブ:で、その後どうなったんだ。
磯:周知のとおり、秀次は秀吉から高野山で切腹させられたよな。で、肝心の金銀交書経は高野山が横取りしてそのまま返さないんだよ。これ以上言うと、高野山すなわち真言宗の悪口になってしまうからな。
ブ:でも、事実だろ。それに、信長の比叡山焼き討ちの際に延暦寺の僧たちが宝物を抱えて逃げてるよな。その多くが高野山に緊急避難で持ち込まれたと聞いたぞ。確か、恵心僧都の「二十五菩薩来迎図」なんかも真言の僧どもがそのまま着服してさ、返してないんだろ。
磯:そうらしいな。
ブ:なんか、高野山相手だと、トーンが下がるな、磯貝~。
磯:まあ、何というかさ、真言密教を敵に回すと怖いからな、、、
ブ:なんか、歯切れが悪いな~。というか、磯貝の名前と弘法大師が関係してるから、若干の遠慮があるよな、高野山には。
磯:別にそういう訳でもないけど、まあ、昔のことだし、、、で、話を毛越寺に戻すと、運慶が完成させた薬師如来像の出来栄えがあまりにも見事だったから、鳥羽法皇が京からの持ち出しを禁止したらしいな。
ブ:でも、結局は平泉の毛越寺に安置されたわけで、めでたし、めでたし。じゃあ、次に無量光院についてはどうなんだ。
磯:三代秀衡の建立した無量光院は宇治の平等院鳳凰堂をモデルにしたと伝えられているけど、規模は無量光院の方が大きかったみたいだな。藤原氏の財力を考えたなら当然だろう。現存していないのが残念でならないよ。
ブ:本当だよな。つくづく、頼朝は碌なことしないよ。では、この辺で、そろそろまとめに入ってもらおうか。
磯:うん。初代清衡が中尊寺を建立する際に、『中尊寺建立供養願文』を書いているんだけど、これは戦で命を落とした人々の霊を慰め、平和な世の中をつくろうという宣言のようなものだ。こんな風に仏国土を造るという意志のもとに国造りを始めた例は世界史上でも珍しいと思う。その精神が東北の地に100年間の平和と繁栄をもたらしたんだよ。奥州藤原氏に関しては、もっと興味を持ってもらいたいと思うな。まだまだ語りつくせないけど、今回はこの辺で区切りをつけよう。
ブ:いや~、ためになったよ。また機会があればよろしく頼むぞ。
磯:おう、また折を見て、「特別編」かなんかやりたいな。
追記
三回にわたってお届けした「奥州藤原氏四代」シリーズもここで一度幕を引きます。
磯貝の情熱と気迫を十分、感じてもらえたと思います。
まあ、半分は川口に対するライバル意識からでしょうが、ハハハ。