確か、1月2日のネット記事で見たが、とある教育現場の生徒会長選挙で「投票の秘密」が守られていなかったという。
その原因は、ある「教育支援アプリ」を使用した結果、誰がどの候補者に投票したかが全て分かるというのだ。
この事実を知った人物が、問題提起をしたことで、この事例が世間に知れ渡ることになったようだ。
この記事を読んだブログ主の第一印象は、「秘密投票の原則は憲法の条文の中でもあまり知られていないからなあ~」だった。
というのも、自分自身も普段はあまり意識していないから。
さて、自分の不勉強は棚に上げて、、、皆さん、これは日本国憲法の第十五条にあります。
*第十五条
1 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
2項と3項は割愛する
4 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。
1項は通常、国民に「参政権」を保証するものと解釈される。
4項の第1文「すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない」が「秘密投票」を規定している。
したがって、最初に触れたネット記事の中で、「投票の秘密」に言及した人物の指摘は正しい。
しかし、しかし、、、
ってクドイか、ハハハ。
ここからの意見はブログ主のオリジナルではなく、ある知識人の卓見である。
第十五条4項の第2文「選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない」にこそ、民主主義の本質である「無責任」が明確に表れている、とその識者は指摘する。
つまり、日本国憲法の謳う「国民主権」を行使する選挙に関して、どんな結果になろうと日本国民は一切無責任でかまわないとこの条文が語っている。
繰り返しになるが、選挙で誰に投票しようが、公的にも私的にも投票者は責任を問われない、ということは当選した政治家が汚職などをおこしても選んだほうにはなんの責任もないということ。
この辺は、冷静に考えると、つくづく民主主義は不思議と言うか、、、
主権者(=国民)が決めた選択(=政治家の当選)の結果として、不祥事(=政治家の汚職など)が発生しても、決断を下した主権者(=国民)は全く責任をとる必要がないのだから。
皆さんはどう思いますか。(ここから、口調を変えます)
ブログ主は指摘されるまで、第十五条4項が規定する民主主義の「無責任」、というか「脆弱性」というか本質的な「恐ろしさ」に気づいていませんでした。
しかし、逆に国民に対して選挙の責任を問うことになると、もっと恐ろしいことが起こる可能性があります。
もし、ある政治家が深刻な犯罪を犯して、損害賠償を求める裁判が行われるとした場合に、もしこの第十五条4が無ければ、その政治家に投票した人々もその対象になるからです。
その政治家が逮捕される場合は、投票した何万~何十・何百万の人々が逮捕されることに(理論上は)なるからです。
このようなトンデモナイ事態を避けるため、国民主権でありながら、国民はその「主権の行使」(=選挙)の結果に無責任にならざるをえない、との判断が働いているのでしょう。
さて、もう一度、ポイントだけを確認します。
民主主義=国民主権
主権の行使=選挙における投票
当選した議員の言動の責任=誰も負わない
⇒ゆえに、民主主義=無責任!
それにしても、やはり、たまにはお堅い本を読まなければいけまんせんね。
おかげで、民主主義の本質が「無責任」だという事実を教わりました。
ここで、素朴な疑問があります。
左翼・リベラルの人たちのほとんどは日本国憲法が大好きですよね。
でも、こちらの勘違いか、あの人たちが憲法第15条4項のことに触れているのを見たことも聞いたこともないんですよね。
あんなに、護憲派で憲法重視の発言をしょっちゅうしているのに、、、
あ、もしかしたら、知らないのかも、だって不勉強ですから。
それとも、知っててあえて触れないとか、、、だって不誠実ですからね~、連中は。
それでは、そろそろ締めに入りますが、「民主主義=無責任」を意識すれば、「衆愚政治」や「ポピュリズム」に懸念を示す識者が最近増えているのも理解できそうです。
また、選挙権免許制度やエピストクラシーなどを提唱する知識人が登場しているのもこのあたりと関係があるのかもしれません。
皆さんは、どう思いますか?