今回、ブログ主には強力な助っ人がいる。
「巨人の肩の上に立つ」という表現があるが、この記事はある知の巨人にほとんど頼りっぱなしになりそう。
さて、以前の記事で「マルクスの思想はキリスト教の亜種であり、つまり一種の宗教である」という趣旨の文章を書いた。
この内容は、ブログ主のオリジナルではない。
20世紀の知の巨人、バートランド・ラッセルの分析を引用したようなものだ。
ラッセルの「HISTORY OF WESTERN PHILOSOPHY」に以下のような記述がある。
(拙訳と多少の追加語句で内容を紹介する)
「マルクスの思想を理解するためには、以下の辞書(対応表)を用いるとよい。
*ヤハウェ(唯一かつ最高神)=弁証法的唯物論
*メシア(救世主)=マルクス
*選民=プロレタリアート
*教会=共産党
*再臨(キリストが再び現れること)=革命
*地獄=資本家が罰を受けること
*千年王国=共産主義社会」(引用はここまで、以下はブログ主の意見も含まれる)
等号の左側の用語は、キリスト教もしくはユダヤ教の教育を受けた人々には非常になじみ深いものだ。
従って、頭の中で、「マルクス=救世主」とか「共産主義革命=キリストの再臨」などと(無意識であったとしても)置き換えると、マルクス思想がすんなり理解できるというわけ。
左側は宗教用語であり、対応する右側に情的・心理的な色彩・意味合いを加えているようだ。
例えば、「選民=プロレタリアート(労働者階級)」という図式が労働者の心に「自分たちこそ選ばれし者だ」という特権者意識を与えて、感情に強く訴えかけてくるのかもしれない。(⇐断言はしておりません)
実際に、キリスト教やユダヤ教の信者がどのように感じているかはブログ主にはわからないが、そのどちらでもない外部から見た場合、このラッセルの対応表を使うと、「マルクス思想≒キリスト教」の関係が一目瞭然である。
マルクス主義とキリスト教の類似性を指摘する文はこれまでも読んだことはあるが、これほど的確に両者の近縁性を指摘する具体的な図式は他に知らない。
こちらが不勉強なだけかもしれないが。
(エンゲルスの「原始キリスト教史によせて」の中に、同様の記述があるらしいが、未読である)
良く知られているように、マルクスは「宗教(ここでは、キリスト教のこと)はアヘンである」と語り、キリスト教が人々を魅了する魔力を持つことに嫉妬していた。
しかし、ラッセルの指摘が正しければ、マルクス思想もまたキリスト教の亜種であり、現実に左翼・リベラルの多くを信者として獲得している。
結局、左翼・リベラルが拠り所とするマルクス思想が宗教の一種だとすると、連中の言動にある程度の説明がつきそうだ。
*なぜ、彼らの思考は固定化しているのか?
⇒教祖マルクスの教えが絶対に正しいと信じているから、他の発想ができない。
*なぜ、彼らは天皇をうとましく思うのか?
⇒彼らにはマルクスという救世主がいるから、(無意識のうちに)天皇は異教徒の神だとみなしている。
まあ、このような感じで様々な点が説明できそうな気がする。
さて、日本の左翼・リベラルさんたちは、このラッセルの指摘について知っているのだろうか。
いずれにせよ、彼らの視野の狭さや独善的な態度は、特定の宗教を狂信的に支持する信者の心的態度とほぼ同じだとの印象を受ける。
そして、この左翼・リベラルの狂信性がさらに過激化し暴走すると、周知のとおり、多くの悲劇が生まれる。
スターリンや毛沢東による自国民の大虐殺、日本の連合赤軍内部の粛清(=仲間をリンチ殺人)など挙げていけばきりがない。
最後に、例のリベラル教授の発言を再度、引用する。
「日本を特異な事例にしているのは、天皇自身が神性を帯びていることによって、天皇を超越する存在を思考できないことです」
上の「日本」や「天皇」をこちらで、左翼・リベラルの本質に見合うように別の表現を入れ替えてみたい。
⇒左翼の思考形式を特異な事例にしているのは、マルクス思想や人権宣言が神性を帯びていることによって、マルクスや人権思想を超越する存在を思考できないことである。
どうですか?
なんか、連中の本質が見えているような気がするのはブログ主だけでしょうか。
今回は、ここまでとしたい。
当然、このシリーズはまだ続く。