我が青春の店

誰にも、心の故郷というか、青春の思い出がつまった場所が一つや二つあるのでないだろうか。
勝手に名前を出して申し訳ないが、我が朋友、ノーちゃんにとっては「園」がそれに該当する。

学生寮から徒歩7~8分程度のところにある食堂であった。
看板メニューは焼きそば。

この店の常連がノーちゃんであり、川口や西川と「久々に、園で焼きそば喰おうぜ」と入っていくと、すでにノーちゃんが店内に鎮座していた。

「ノーちゃんって、いつも来てるよな。もしかして、ここに住んでる?」
「なんか、ノーちゃんが注文すると、普通盛りでも、微妙に量が多くないか?」
「うん、俺もそう思う。やっぱり、常連へのサービスかな」

などと話題になっていたが、佳樹マスターによると、「いや、園のおばちゃんとノーちゃんがデキてるんだよ」とのこと。
真偽のほどは定かではない。

宮崎のSにとっては、寮の近くの美容室、名前は「パッシー」だったか、、、
きれいな美容師のおねえさんにカットしてもらうのが至福の時だったそうな。

さて、今年の1月3日午後15時過ぎ、ブログ主の愛する小さな飲食店街が火災に襲われた。
名を「鳥町食堂街」という。
街全体が小規模のアーケード街で、約70mの路地に25店舗ぐらいが密集。

松本清張ゆかりの有名中華料理店、「焼うどん発祥」を謳う店などが特に知られていた。
元々は、食堂や喫茶店が中心だったが、次第に飲み屋が増えて、最近ではキャバクラが一店舗営業。

その起源は戦後の闇市であり、昭和の匂い、空気感を色濃く残す街であった。
それが、3日の火災で全滅する。

親同伴ではなく、自分だけで訪れたのは高校生の頃だ。
中央部にあった喫茶店に入ったのを覚えている。

それからは、いくつか食堂を覗いてみた。
やがて、ある特定の食堂に友人と入り浸るようになる。

母と娘で営業する食堂で、一階はカウンター席、二階にテーブル席があった。
店のおかあさんはとても気さくで感じがよく、いつもご飯を大盛にしてくれたり、おかずを一品サービスしてくれたり。

遊ぶ金がない時、店が暇そうな頃を見計らって、顔を出すと、「今ゆっくりしてるから、二階に上がってコーヒーでも飲んでいって」と必ず声がかかった。

我が辞書に「遠慮」の文字はない、とばかりに図々しく階段を上り、テーブル席でくつろぐ。
すると、数分後にコーヒーとお菓子が届く。
今にして思うと、夢のように幸せな時間・空間。

ここで、皆さんはもうお気づきのことと思うが、友人と私がこの食堂にはまった最大の理由は、店の娘さんの存在。
二つ年上で、水越けいこにそっくりの美人さん。

店に客があまりいない時間帯に、このお姉さんととりとめのない会話を交わすのが天上の喜び。
全然気取ったところがなく、働き者の女性だった。
この娘さん目当てで通う男性客は多かったようだ(って、お前だろ!)。

社会人になってからは、学生時代の恩返しのつもりで、手土産をさげて顔を出すようになる。
すると、「そんな気をつかわなくてもいいのに、、」と言いながら、ビールをサービスしてくれたりで、、、

当初から、友人と二人で店に行くというのが不文律のようになっていた。
それゆえか、十代の頃から、あんなに足繫く通って、二階に何時間も居座って我が物顔に振舞っておきながら、ここ十年ぐらいは友人とのタイミングが合わないのもあって、訪れるのを控えていた。

そして、あのコロナ禍である。
令和2年7月、我が青春の食堂はのれんを降ろした。

ある日、廃業を知らずに鳥町食堂街にブラっと入った私の目に、「お客さま各位」で始まる閉店の挨拶が映った。
最後に、もう一度、お母さんと娘さんに会いたかった、、、と言っても後の祭り。

様々な思い出が頭の中をよぎったが、最後に残ったのはどうしようもない寂寥感。
一つの時代が終わった。

そして、今年の1月3日、食堂街全体が灰燼と化した、、、

これ以上、文を綴ると、泣き言の羅列になりそうだ。
ここまでとしよう。

諸行無常!