日本の「メリークリスマス」

12月23日の深夜、後輩からブログ主のラインにクリスマスソング付きの動画が届いた。
気が早いな、と思いつつ我ながら律儀に、2分18秒の動画をフルで鑑賞した。

なかなかよくできてるな、といった感じ。

翌、24日の朝、部活の同期である金井からなんか似たような動画が送られてきた。
確認すると、後輩からのと同じもの。

早速、金井に、「酒井から来た動画だろ?」と送信すると
「そうそう、議員さんは気遣い大変」との返信。

後輩の名は「酒井」、某県某市で市会議員を務めている。
当選回数は6回、党派は無所属。

もちろん、酒井本人はクリスチャンではない。
ブログ主も、同期の金井も。

別に、それでいいではないか。
ほとんどの日本人にとって「クリスマス」はただのイベントだ。
(商人・企業にとっては稼ぎ時)

ブログ主ごときでも、キリスト教におけるクリスマスの意義については多少の知識はある。
ただ、大多数の日本人はそこに宗教的な意味合いを見出さないし、求めてもいない。

もし、生粋のカトリックやプロテスタントが団結して、「日本のクリスマスの位置づけはけしからん!もっと、宗教に対して誠実であれ」とか抗議してきたら(するわけないが)、「すいません」と謝るだけ。
(「いいよ~」と返ってくるかな?って、吉本か!)

大まかに言うと、日本は「多神教文化」だから、なんでも取り込んでしまうのかな、と感じる。
(この辺の議論は本格的にやるとかなり大変なので、今回はサラッと流す程度で)

戦国時代にイエズス会の宣教師とともに降誕祭のミサが伝わったという。
その頃は、キリスト教の儀式の性格を持っていたのであろう。

どんな宗教であれ、伝播・布教の際に、その土地の土着の宗教・文化・民俗などの影響を受けて変容・変質するのは当然のこと。
場合によっては、完全に骨抜きになったり、正反対の姿に生まれ変わる。

例えば、本来の仏教には「親孝行」の概念などない。
それでは困る支那(中国)が、仏教受容のために『父母恩重経』や『盂蘭盆経』という偽経を作成した。
日本の「お盆」のもとになったお経である。

日本では、宗教行事の降誕祭を楽しいイベントに創り換えて(=骨抜きにして)、取り込んだということ。

アメリカでは、イスラム教徒などに配慮して公の場では、「メリークリスマス」を言わない動きがある。

支那では、共産党員や公務員に対して「クリスマス禁止令」が出ているらしい。
(共産主義自体が宗教だから、一種の宗教戦争か? これも長くなるので、ここまで)

インドでも、、、、

日本人は、それぞれ好きなようにすればよいと感じる。

クリスチャンの日本人は正式に行事として降誕祭を行えばいい。
単に陽気なイベントとして楽しみたい人は満喫すればいいではないか。

うちは禅宗だから、クリスマスなど関係ないというのなら、それでなんの問題もなし。
真面目に、「そもそもクリスマスとは、、、」と真剣に語りたい人は語ればいい。

商人、企業はしっかり稼げばいい。
世間の波に踊らされたくない、と思う人は泰然自若としていればいい。

それが、「八百万の神の国」である日本にとって自然なことだという気がする。

日本の「メリークリスマス」は、それぞれの日本人が自分にとっての「メリークリスマス」にすればよい。

追記
磯貝~、今回の記事も一般受けしないかな?
どう思う?