今回は怒りの記事である。
理解できない書物の書評を書くな!
己の読解力不足を棚に上げて、著者を揶揄する記事をネット上に上げるな!
自分よりも遥かに知的レベルが高い相手を小ばかにするような態度をとるな!
わからないことや知らないことは、人にきくか、自分で調べろ!
これ以上続けると、怒⇒激怒⇒大激怒となりそうだから、この辺で一旦冷静に、冷静に。
優れた芸術作品を正当に評価するためには、鑑賞者にもそれなりの素養や鑑識眼が要求される。
同様に、良書を味わうためには、読者にはその分野の知識や最低限の一般常識と読解力が求められる。
当然すぎるぐらい当然のことであろう。
ブログ主は西洋美術に関しての知識はほとんどゼロである。
だから、有名な西洋画家の作品に関する評価を語ることはできないし、そのテーマで記事を書くことはできないし、また書こうという気にもならない。
読書に関しても、志那の古典などはまったく不案内であり、あの『論語』でさえ原文で読んだことはない。
高校の漢文の授業で超断片的に、いわゆる「読み下し文」を習った程度だから、『論語』の書評を書くことなど不可能である。
まして、孔子に悪態をつくことなどできるはずがない。
ところが、ところがである。
ネット上には己の不勉強・無教養を顧みず、優れた書物を貶め、著者を軽蔑・罵倒する者たちが幅を利かせている。
いいかげんに、やめてほしい。
あなたたちの行為は無礼であり、馬鹿丸出しであり、卑怯であり、営業妨害である。
一例を挙げる。
以下は、ある有名な評論家と哲学者の対談本についての匿名書評である。
(長いので、ブログ主が要点をまとめた)
「ショーペンハウエル、ニーチェ、カント、ヤスパース、カール・シュミット、ゲルツェン、マックス・ミュラーなどの学者や哲学者の言葉や考えを次々と二人で競うようにして発している。このような知の巨人の考えをあたかも自分の考えであるかのように語り、知識をひけらかしているように感じる。ただ一つ、この二人が自分の意見として言っているのは、『自分たち以外は全員バカ』ということ。でもこの二人が本当の意味で頭が良いかというと大いに疑問だ、、、、、」
まず、有名な評論家と哲学者が社会・宗教・文化・政治・歴史など多岐にわたる分野を論じているわけだから、学者や哲学者の名前が出てくるのは当然であろうが、この匿名者はこんなことも理解できないらしい。
さらに、この匿名評者は著者の地の文と引用箇所の区別もつかないようだ。
当然のことだが、書籍は『 』で、学者や哲学者の考えなどは「 」で囲み、引用部であることを明示している。
⇒大学生の頃に、G・ルフェーブルの『フランス革命序論』が出た。古典的な左翼の人で「フランス革命は壮大な祭りであった」という言い方をしている。
*『フランス革命序論』が書名で、「フランス革命は壮大な祭りであった」はそこからの引用であること示す
議論・討論のために第三者の考え・意見を引用する行為を「知識をひけらかしている」と感じるような人は、いわゆる「お堅いテーマ」を扱う本に向いていないのであろう。
無理して読むことはないし、自分が理解できないからといって著者達のことを、「でもこの二人が本当の意味で頭が良いかというと大いに疑問だ」などと言って欲しくない。
ハッキリ言わせてもらう。
あなたの読解力不足です!
もっとひどいものもある。
「少しは期待して読みましたが碌な話が出てきていない。飲み屋で親父が愚痴をこぼしているような話ばかり」
ほぼ間違いなく、上の感想を書いた者はこの本を通読していない。
読んでもないくせに、書評を書くな!
おまえに、もうひとつ。
「対談本のためか、内容がはしょりすぎている(説明不足)と思う」
この対談本には人名・書名・用語について数多くの注がついている。
注を読んでもまだ理解できないのなら、人にきくか、自分で調べればよい。
本には限られたスペースがあるということを理解しましょうね。
当ブログにも「読書感想」のカテゴリーがある。
これも一種の書評であろうが、自分の力不足で不明の部分は「わかりません」と明示するし、あやふやな点は「かもしれない」等の表現にしているはずだ。
間違っても、自分の不勉強を棚に上げて著者を非難したことなど一度もないはずだ。
というか、自分が評価する本しか取り上げていないから、自然に褒めることになる。
(多少批判した本もあるかも、、、でも冷静に論じていると思うが、、、)
ネット上で書評を書いている皆さん、お互いに節度を持って記事を作成しましょう。
お、最後はとても落ち着きました。
ハハハ!