熊の駆除はやむなし! 熊愛護派さんへの冷静な反論

前回は、過激な熊愛護派の方々へこちらも感情的な反論をしました。
今回は、冷静に反論させていただきます。

その前に、こちらの主な考えを表明します。以下の2点です。

1 危険な熊の駆除はやむなし
⇒熊を無制限・無条件に駆除すべきだとは考えていません。
人間に危害を加えた個体または危害を加える可能性がある個体を駆除するのは「やむなし」と発言しています。

2 熊生息地の近隣(熊と遭遇する地域)の住民(猟師含む)・自治体の意見を尊重する。
⇒地元住民・役場が危険と判断する熊は躊躇なく駆除すべきだと考えます。
「春グマ駆除」やその他の有効な対策も必要に応じて行っていただきだいです。

こちらの基本線は伝えました。

さて、熊愛護派の「熊を殺すな」論の理由には以下のようなものがあります。

・熊は賢いから殺すな
・熊は絶滅危惧種だから殺すな
・熊が絶滅すると生態系に悪影響が出る
・熊を殺すことは人間のエゴや無知に基づく暴力である
・熊を殺すことは動物の権利や福祉を無視している

では、まず「熊は賢い動物だから殺すな」論に冷静に反論します。
こちらからの反論のポイントは二つ、

①熊が賢いとは、どういう意味なのか
②では、仮に熊が「賢い」とした場合に、なぜ賢い動物を殺してはいけないのか

①に反論するまえに、事実を並べます。

*動物の「知能」をどう定義づけるかについては一定の共通理解が存在しない。
(そもそも、人間の「知能」を定義づけることも困難ですよ、諸説ありすぎて)
*その曖昧な「熊の知能」を検査・測定することの可否については、専門家・研究者の間でも意見が分かれる。

それでは、冷静に熊愛護派に反論します。

・定義も定まらず、専門家間でも意見が分かれる「熊は賢い」論は論理的な根拠が乏しいのではないでしょうか。
少なくとも個人的には、説得力があるとは思えません。
もちろん、捉え方は人それぞれでしょう。
それでも、個人的には「熊は賢い」論は論証不可能としか言えません。

ここで終わってもいいのですが、下に「*」で事実を挙げて、もう少し続けます。

*熊の知能を検査・測定できるとする研究者の主張の根拠は、様々な実験による熊の行動の観察・分析結果である。

興味のある方は調べてもらいたいのですが、要は「実験」と「観察」に基づいています。
そこで、素人ながら、肯定派の専門家に素朴な疑問があります。

疑問その1⇒被験者である熊は実験の意義を理解しているのか、また真剣に実験に参加するのか。

人間が握力検査を行う場合、全員が真剣に取り組んでこそ、最高値や平均値に意味が出てくるわけです。
熊に「やる気」を期待できるのでしょうか? 熊が実験の趣旨を理解、、、、まあ、この辺で。

疑問その2⇒分析の際に、また結論を出す際に、熊の知能に対する期待からバイアスがかかっていませんか。

例えば、研究者の中には「熊はハチの巣を見つけるために風向きや地形を利用しており、これは熊が空間的記憶力や推理力を持っている証拠である」と主張して「熊は賢い」派を喜ばせる人もいます。

上の意見をどう思いますか。
その気になれば、様々な生物で同様の説明はできそうですが、例えば以下のように。

⇒「メスの蚊は人に叩かれそうになると、危険を避けるために、その人間の体臭を記憶し、その匂いを避ける記憶・学習能力がある。また、事前学習がなくとも人体を感知し、的確に血管の位置を探り出すことから高い知能が窺える」とか

⇒「ゴキブリは家屋の構造を正確に把握し、侵入できる隙間やくぼみを瞬時に判断する空間把握能力を持つ。人間が隠した食物の位置を探知する能力は極めて高く、これはゴキブリの推理能力と知能の高さの証左である」とか簡単にできそうです。

もちろん、上の二例はブログ主が試しに作成したものですが。
これ以上続けると、研究者を茶化してしまいますので、この辺にしておきます。
今回は、あくまで「冷静」に反論ですから。

では、②に行きましょう。
百歩譲って、「熊は賢い」とします。

では、それが「熊を殺すな」の論理的な根拠になるでしょうか?
前回も書きましたが、「恣意的な判断」と見なされても仕方がないと思います。

*念のためですが、「恣意的な判断」とは「勝手な都合・思い」という意味です。

こちらは、熊愛護派の「恣意的な判断」よりも人命の方が大切ではありませんか、と主張しているだけです。
「人命の尊さ」を「熊の賢さ」よりも尊重してください、とお願いしているだけです。

ここで終わってもいいのですが、もう少し続けます。
例えば、下の意見はどうですか、

「猫はかわいいから、殺処分するな」
「犬は人間の友達だから、食べるな」
「ダイコクコガネは希少種だから、臭いけど殺すな」
⇒ダイコクコガネは牛や馬の糞に集まる「フンコロガシ」の一種らしいです。

「猫はかわいいから」というのは、猫好きの恣意的な判断です。
一方、三味線業者は「猫の皮が必要だから」という恣意的な判断で猫を生活の糧にしています。

「犬は人間の友達だから」は犬好きの勝手な都合です。
同様に、犬を食べる人たちの「犬肉は美味しいし、滋養にいいから」は「犬肉」好きの勝手な都合です。

「ダイコクコガネは希少種だから」もダイコクコガネのファンが「希少ゆえに貴重」と勝手に判断しただけです。
糞虫に興味がない人が、ダイコクコガネを「臭いから、嫌だ」と嫌うのもその人の都合です。

猫や犬やダイコクコガネの愛護派はそれぞれの理由で猫や犬などを可愛い・大事だと思いますが、冷静に考えると、その気持ちは我々人間の勝手な思いではないでしょうか。

猫好きもいれば、犬好きもいるし、両方好き派もいれば、両方嫌い派もいるでしょうし、特に興味ない人もいるでしょう。
結局、人それぞれの好み・趣味・嗜好ということではないでしょうか。

このように見てくると、猫や犬やダイコクコガネを愛護する気持ちが「勝手な都合」であるのと同様に、「熊は賢いから殺すな」は熊愛護派の「勝手な都合」であると思わざるをえません。

では、なぜ熊愛護派だけに反論しているのか、答は簡単です。
人命が関係するからです。

熊愛護派の「勝手な都合」で人命が軽視されてもいいのでしょうか。
熊愛護派の「エゴ」のせいで、多くの人が熊に襲われて大けがを負ったり、命を落としているのです。

危険な熊の駆除はやむなし! これが結論です。


*ここまで、自分では冷静に反論してきたつもりですが、最後に少し感情的になります。

「熊は賢いから殺すな」論と同じ構造が「イルカやクジラは賢いから殺すな」論です。
この主張が嫌なのは(感情的ですね)、この裏に「知能の低いものは殺してもかまわない」論が隠れている気がするからです。

もちろん、①で見たように、「知能」の定義は定まってはいません。
しかし、過去、一部の者たちが、自分たちに都合のいい定義やトンデモ学説を作り出し、それを振りかざして他民族を弾圧したり、人種差別を行った歴史があります。

その際に、「・・・民族は劣等である」とか「・・人種は知能か低い」などと平気で主張する者たちがいました。

「イルカやクジラは賢いから殺すな」の発言を聞くと、ついつい感情的になります。
「じゃあ、知能の低い動物は殺してもいいし、知能が低いと勝手にみなした民族や人種も殺してもいいと思っているのか」と感情的に反論したくなるからです。

皆さんもご存じの「黄禍論」は日本人差別に他なりません、、、と、感情的な記述はこの辺にしておきます。
今回はたった一つの意見にだけ反論しました。

というか、この話題はなんかもういいかなって感じですね。
他にも、書きかけの記事があるし、また機会があればということで。

それでは、失礼いたします。

蛇足
個人的には、犬も猫も好きですし、子供のころは実家で「秋田」や「雑種」を飼っていました。
それでも冷静に考えれば、生き物に対する人間の愛情は「エゴ」であり「勝手な都合」としか思えません。