NHK朝ドラ『ブギウギ』のモデルが笠置シヅ子。
そこから、後援会長が南原繁。
そこから、南原総長と吉田茂の「曲学阿世論争」へ。
というわけで、まず、曲学阿世とは?
⇒真理に背いて時代の好みにおもねり、世の人が気に入るような説を唱えること。
世間や時勢に迎合する言動をすること。
では、曲学阿世論争とは?
⇒昭和25年5月、当時の吉田茂首相と東大総長南原繁との間で行われた舌戦。
その背景、当時の状況は?
⇒戦後間もない当時の日本では、講和問題が活発に論議されていた。
⇒その論議の中心は単独講和か全面講和かという点にあった。
では、単独講和とは?
⇒早期に独立することを最大の目的として、講和できる国々とまず講和をするべきだという主張である。
*当時の日本は、占領統治下にあった(蛇足ですが)。
では、全面講和とは?
⇒非武装・中立を日本のあるべき姿と考えて、すべての国と同時に講和を結ぶべきだとする主張である。
改めて、二人はなぜ論戦したのか?
⇒吉田が率いる政権は単独講和派、一方の南原総長は全面講和派であった。
⇒南原総長は、全面講和賛成の立場から様々な活動を行っていた。
⇒米のハーバード大学やコロンビア大学の総長と面会し、全面講和を説いた。
⇒当時のコロンビア大学の総長は大統領になる直前のアイゼンハワーであった。
⇒上記の南原総長の行動に、吉田首相が激怒し、「曲学阿世の徒」発言となる。
では、この「論争」(と言うほどでもないが)の流れを以下に。
*昭和25年5月3日
吉田「永世中立であるとか、全面講和であるとか言っておりますが、これは言うべくして行われ得ないことです。それを南原総長あたりが、政治の領域にまで立ち入って主張するということになれば、これはもう曲学阿世の徒と言うほかはありません」
*同年5月6日
南原「全面講和を唱えるものを全て曲学阿世の徒と決めつけるのは、満州事変以来、軍部とその一派が、美濃部達吉博士をはじめ、われわれ学者に対して示してきた態度と何ら変わるものではありません。それは学問の冒瀆であり、学者に対する権力的強圧です。全面講和は国民の何人もが欲するところであって、それを理論づけ、国民の覚悟を促すのは、ことに私にとっては政治学者としての義務なのです。それを学者の空論と決めつけ、国際情勢の現実は政府関係者にしかわからないと言うのは、官僚的独善以外の何ものでもありません」
*同年5月8日
吉田「どういうおつもりか、私にはさっぱりわかりませんね。いいですか、アメリカとの事実上の単独講和は、既に出来ているんですよ。あとはこれを、法的に条約締結というところまでどう運ぶかという問題だけなのです。もちろん、南原総長がこれに反論しようとしまいと、それは当人の勝手でありまして、私の知るところではありません」
以上のようなやり取りが行われた。
簡単に言うと、単独講和=現実論、全面講和=理想論となりそうだ。
ただ、誤解してほしくないのは、南原総長は世間でよく言う「お花畑」の人ではない!
本人の考えは、「およそ戦力なき国家は国家ではない」「平和は血と汗で守るものだ」
「いくらなんでも、9条2項はメチャクチャだ」などである。
総長の子息によると、自衛隊に反対など一言も発言していないそうだ。
この論争後、日本は吉田の目指した単独講和に向け動いていく。
この結末は、下に「蛇足」として簡単に記した。
南原総長は、とても男気のある方だったのではなかろうか。
友人亡き後に、その娘である笠置シヅ子の後援会長を務めている。
この件は、すでに当ブログで書き、また当記事の冒頭でも触れたので、繰り返しになりますね。
では、これで失礼いたします。
*蛇足
・昭和26年(1951年)9月、日本はサンフランシスコ平和条約を締結した。
この条約には、49か国が調印した。
・翌、昭和27年(1952年)4月、条約発効により日本は独立をはたす。
*もうひとつ蛇足
・「非武装・中立」とは何か、についての説明は今回は省きます。
また、機会があれば当ブログにて。