南方熊楠と牧野富太郎には少なからず共通点がある。
その一つが、昭和天皇へのご進講である。
熊楠の昭和天皇へのご進講について
・昭和四年(1929年)六月一日
・天皇南紀行幸に際し、田辺湾内神島にて迎え、のち御召艦長門艦上にて進講を行う
(*御召艦とは、天皇が座乗する艦船のこと。長門は、旧帝国海軍の戦艦である)
・粘菌標本110種等を進献する
さて、この熊楠による進講が正式に決定されるまでには、かなりの妨害があったという。
県庁や警察などの地方当局者は、熊楠が不適切なふるまいをするのではないか、と勝手に想像し排除しようとしたようだ。
ところが、昭和天皇ご自身が、熊楠の話を聞きたいと所望された。
そうなると、反対勢力は打つ手なし。
なんと、痛快な話ではないか!
さすが、天下の南方熊楠!
熊楠本人の弁を少し紹介すると、
「無位無官の者を御召艦に召さるるは先例なきことにて、県知事や衆議員すら供奉艦陪乗するも、御召艦へは小生一人召さるるなり」
進講の翌年、六月一日、天皇前年神島御上陸お野立ちの地点において、行幸記念碑の除幕式が行われた。
その記念碑には、熊楠の自詠自筆の和歌が刻まれていた。
「一枝もこころして吹け沖つ風 わが天皇のめでましし森ぞ」がその歌である。
熊楠が自作のこの歌を佐々木信綱に見てもらうと、信綱は
「吹く風も心してふけここはしも わが大君のめでましし森ぞ」と添削した。
しかし、熊楠は自作を固持し、記念碑には熊楠の原作が今も残っている。
後日談をひとつ。
熊楠没後、昭和三十七年(1962年)五月、両陛下が南紀白浜に行幸された時、昭和天皇は熊楠とお逢いになった日を追懐されて、
「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」と詠まれた。
一方の牧野富太郎博士の天皇ご進講は、昭和二十三年(1948年)十月のこと。
時に、牧野博士86歳。
ここで突然、ブログ主の頭に、あることが浮かんできた。
もしかして、牧野博士は、、、、
この続きはまた改めて。