『豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だったころ、琵琶湖の南に、、、、、』
って、これはまったく関係なし。
元亀2年(1571年)、織田信長による比叡山焼き討ち。
その際、秀吉は比叡山を包囲する武将の一人でありながら、僧や女性や子供を逃がせるだけ逃がしたという話が伝わっている。
天台宗大僧正である今東光氏の『毒舌日本史』(文春文庫)にも以下の記述がある。
『この横川の香芳谷の攻め口を羽柴筑前守(秀吉)が受け持った。十六谷それぞれの攻め口に武将を配置したのが解りますね。ところが秀吉はこの攻め口を塞がないで開けっ放し。これじゃ山の坊主が逃げ好いですよね』
『あれほど怖い信長の部隊長のくせに、攻める格好をして攻め口を開放した。だから逃げ足の速い坊主はどんどん横川へ廻って香芳谷から山を逃散しました。つまり秀吉は知らん振りをしながら逃がせるだけ逃がしてやったんですな』
ブログ主は歴史の専門家ではない。
ただ、東光和尚が言うからには、少なくともそのような伝承が比叡山にあるのではないかと思う次第。
というのは、比叡山では古来より、口伝を重んじていたからだ。
その「口伝」も、「口伝」とハッキリとは言わずに、「ロイ」と暗号めいた呼称を用いるという。
天台宗の学僧の間では、古より、様々な逸話・伝承が「ロイ」の形で代々、伝えられているとのこと。
秀吉が叡山焼き討ちの際、僧や非戦闘員を見逃したという公式文書・記録は残っているのか?
当ブログ主は、不勉強にして知らない。
しかし、博覧強記の天台宗高僧である今東光氏の発言を信用する。
ここで、歴史の素人として勝手なことを言わせてもらう。
見逃したのが事実だとすると、なぜ秀吉はそのような行動をとったのか。
以下は、無学な素人ブロガーの妄言である。
秀吉は比叡のお山に、なんか、親近感というか愛着のようなものを持っていたのではないか、とブログ主は想像する。
その叡山に対する気持ちから、焼き討ちの際に、僧を逃がしたのではないか、と妄想を膨らませている。
この妄想の元は、秀吉の愛称?である「猿」にある。
この「猿」というあだ名にまつわるアレコレから、秀吉と比叡山についていろいろと素人ふぜいながら想像を、、、
この続きは、当ブログでまた。