8月15日は「終戦の日」でも「敗戦の日」でもない ~ 日ソ戦争

毎年、8月15日には、「終戦の日」もしくは「敗戦の日」という言葉を目にする。
「終戦」か「敗戦」か、この使い分けにこだわる人もいるようだ。
興味のある方は、「終戦か敗戦か」でネット検索すると、様々な記事が出てくるので、一つ二つ読んでみてはどうだろうか。

しかし、タイトルにあるように、当ブログは8月15日はそのどちらでもない、の立場をとる。
その理由は以下の二つ

1 昭和20年8月15日の時点で、日本とソ連は戦争を継続中であった。
2 国際法においては、戦争が終了するのは、当事国間で締結された講和(平和)条約が発効する時点である。

今回の記事は、1の日ソ戦争について少し紹介したい。

◎ 日ソ戦争の背景

*ヤルタ秘密協定(1945年2月)
ソ連が対日参戦するにあたっての秘密協定である。
米のルーズベルト、英のチャーチル、露のスターリンの三者が署名した。
ドイツが降伏して欧州における戦争が終了した二か月後または三か月後に、ソ連が対日参戦するという内容である。

しかし、後述するように、この当時、日本とソ連は「日ソ中立条約」を結んでいた。
つまり、米英はソ連に、条約を一方的に破って、満州に侵攻するように要求。
こんな汚い真似をしておいて、連合国側は戦後に日本を「100%悪」だと決めつける。
こういう事実を、日本人には知って欲しい。

*日ソ中立条約(1941年4月13日調印)
この条約は、41年4月25日に発効、5月20日に批准書を交換した。
有効期間は批准から五年、従って、46年5月まで有効のはずだったが、、、

昭和20年8月、この中立条約をソ連が無視して、満州を蹂躙し、関東軍を壊滅に追い込んだのである。

◎ ソ連軍、満州に侵攻する

*大本営は、ソ連の侵攻を予想していたが、、、
東京の大本営は、昭和20年五月ごろには、ソ連が掟破りの参戦を敢行する可能性を予想していた。
日本軍の某大佐は、ソ連は8月に満州に攻めてくると、周囲に警告している。
しかし、7月の大本営の会議にて、「ソ連の参戦は、米軍が本土に上陸した後だ」との意見が支持を集めてしまった。

* ソ連軍が三方向から、満州に侵攻
昭和20年8月9日未明、極東ソ連軍が満州へ攻め込んで来た。
西からザバイカル方面軍、東からは第一極東方面軍、そして北からは第二極東方面軍と三方向からの大攻勢である。
ソ連は三つの方面軍を合わせて、実に137万名を超える大部隊を投入した。

一方の、満州における関東軍は、約44万名(停戦後の推計、航空部隊を含まず)でしかなかった。
戦闘の詳細は、ここでは触れる余裕がないので、以下に戦力・戦術面において二点を挙げる。

*彼我の航空兵力及び戦車の質と量
とにかく、陸上兵力だけでも圧倒的な大差があるばかりか、航空兵力においても関東軍とソ連軍とでは比較にならない程の開きがあった。

関東軍の持つ戦闘機は160機程度、一方のソ連軍は2800機以上。
日本の爆撃機は約40機にすぎないのに、対する極東ソ連軍が使用した爆撃機は1600機を超えた。
勝負にならないのは当然だ。

戦車の性能も、ソ連製のT34と日本の九十七式戦車とでは、大人と子供ぐらいの体力差があった。
ソ連の戦車は85ミリの主砲を備え、装甲(防御用鉄板)の厚さが45ミリ。
日本の戦車の主砲は57ミリ、装甲は厚いところでも25ミリ程度。
どうあがいても、日本戦車はソ連のT34には敵わなかった。

◎ 玉音放送後も戦闘は続いた

*8月15日の玉音放送の後も、日ソ戦争は続く。
日本軍が戦闘を止めなかった理由は、15日の時点で、参謀総長から「停戦命令」が出ていなかったからだ。
翌、8月16日、総参謀長から、「即時戦闘行動を停止」の命が入る。

しかし、それでも、ソ連側は停戦しなかった。
スターリンからの「停戦命令」が下っていなかったからだ。
そのスターリンが停戦を命じるのは、8月18日。

だが、その後も、諸事情により、日ソの一部の部隊が戦闘を継続する。
例えば、関東軍のある師団は、停戦放送を聞いた後も、謀略放送かもしれないとの疑心暗鬼からソ連軍と戦い続けた。
この日本軍部隊が停戦に応じたのは、8月29日のことであった。
玉音放送の二週間後である。

◎ 8月15日は「終戦の日」でも「敗戦の日」でもない。

上述のように、8月15日以降も、満州では日ソ戦争が継続した。
これが、本記事タイトルの意味である。

実は、日ソ戦争には、もうひとつ大きな局面がある。
それは、南樺太と千島列島における日ソ戦争だ。
これに関しては、また改めて記事にしたい。