NHK朝ドラ『ブギウギ』、もちろんモデルは笠置シヅ子。
笠置シヅ子ってどんな人?
少し調べてみると、実父が南原繁と友達だったことが判明。
南原繁(1889~1974)といえば、戦後初の東大総長。
このアカデミズムの大物が笠置シヅ子とつながるなんて、チョット意外でした。
香川県で笠置シヅ子が生まれたのは、大正3年(1914年)の8月。
その翌年に実父が亡くなる。
実母は母乳の出が悪かったために、近所に帰省していた大阪の女性から貰い乳をした。
結局、その女性がシヅ子を大阪に連れて帰り、養女とした。
シヅ子が自身の出生について知るのは後年になってからだという。
笠置シヅ子が30代後半になった頃、南原繁から、実父の人となりや実母との交際のことなどを詳しく聞いたそうだ。
南原自身が香川県出身であり、実父の友人でもあったからである。
その後、南原は笠置の後援会長となり、シヅ子を見守った。
当時の南原は東大総長。
友人の娘のために一肌脱いだのであろう。
南原繁に関してブログ主が知っているのは、例の吉田茂とのやりとり。
戦後間もない昭和25年、日本国内は全面講和か単独講和かで大きく揺れていた。
吉田総理率いる政府は単独講和を目指す一方で、南原東大総長は全面講和の支持者だった。
昭和25年5月3日、吉田総理はこう発言する。
「永世中立であるとか、全面講和であるとか言っておりますが、これは言うべくして行われ得ないことです。それを南原総長あたりが、政治の領域にまで立ち入って主張するということになれば、これはもう曲学阿世の徒と言うほかはありません」
数日後の5月6日、東大総長室にて南原総長が会見した。
「全面講和を唱えるものを全て曲学阿世の徒と決めつけるのは、満州事変以来、軍部とその一派が、美濃部達吉博士をはじめ、われわれ学者に対して示してきた態度と何ら変わるものではありません。それは学問の冒瀆であり、学者に対する権力的強圧です」
これは、戦後史の中でも有名な一件だから、ネット検索すれば情報は沢山出てくるはず。
興味のある方は調べてみては、いかがでしょうか。
それにしても、友人亡き後に、その娘の後援会長をかってでるとは!
その辺の詳しい事情は知らないが、南原繁という人物、なんかイイ!
急に、くだけた感じになって申し訳ないけど、なんか、カッコいい!
南原総長については、上で触れた吉田茂との絡み以外はほとんど知らない。
余裕のある時に、少し調べてみようかな。
今回は、人と人との不思議なつながりにビックリしましたよ、つくづく。
では、この辺で失礼します。