福沢諭吉(1835~1901)といえば、「天は人の上に人を造らず、、、、、」で有名だ。
(ただ、この頻繁に引用される一節を誤解している人が多いみたいだが、今回は触れない。)
最近は、新一万円札の顔が渋沢栄一へとバトンタッチされた。
諭吉ファンにとっては痛恨の極みだろう。
まあ、現状は、新旧両方とも流通している。
さて、タイトルを見た常連さんがたは、「え、福沢諭吉と靖国神社にどんな関係があるの?」と訝しく思うかもしれない。
実は、深い因縁(⇐悪い意味ではない)がございます。
福沢諭吉の直弟子に小泉信吉(1849~1894)という人物がいた。
この小泉氏の息子さんが小泉信三(1888~1966)である。
親子ともども、慶應義塾長を務めたという「父子鷹」の好例。
では、息子である小泉信三が、諭吉先生の愛国者ぶりを描写した文から少し、引用する。
(引用中の「先生」は、もちろん福沢諭吉を指す)
⇒「幕末以来、欧米勢力の東亜侵略に対して国家の独立、国権の拡張を叫び続けてきた先生は、明治十五年の朝鮮事変発生のあとは当然の帰結として陸海軍軍備の大拡張論者として、常に民間世論の指導に任じた、、、、、、日清戦争を迎えた先生は時事新報の社説において殆ど連日、筆をとって大概強硬論を吐露して休む事のなかったことは世間周知の事実である」
ブログ主も最近、この箇所を読んで、福沢諭吉の「愛国者」としての側面に新鮮な驚きを覚えた。
福沢が、国の独立を最重要視し、軍備拡張論を唱えていた事実。
引用部には明示されていないが、福沢は日清戦争が始まると軍資金の募集も呼びかけている。
小泉信三の説明によると、福沢は日清戦争の勝利に喜び、戦後に様々な意見を世論に訴えた。
それは、兵士の恩典、出征軍人遺族の扶助方法についてだけではなく、戦死者の大祭典を実施すべきことをも説くものであった。
当事、福沢諭吉は、『時事新報』という日刊新聞を主宰していた。
その新聞論説のひとつに『戦死者の大祭典を挙行すべし』がある。
その中で、福沢は日清戦争で命を落とした兵士とその遺族に最大の栄誉を与えよう、と訴える。
⇒「特に東洋の形勢は日に切迫して、何時いかなる変を生ずるやも測るべからず。万一、不幸にして再び干戈(かんか)の動くを見るにいたらば、何者に依頼して国を衛(まも)るべきか。やはり、夫の勇往無前、死を視る帰るがごとき精神に依らざるべからざることなれば、益々此精神を養うこそ護国の要務にして、之を養うには及ぶ限りの光栄を戦死者並びに其遺族に与えて、以て戦場に斃るるの幸福なるを感ぜしめざるべからず」
なぜ、福沢が戦死者と遺族に最大の栄誉を与えようとしたのか?
それは、生還者との大きな差である。
日清戦争から生きて帰国した将兵たちは、名誉を与えられ、国民に感謝されただけではなく、爵位勲章を授けられたり、報奨金まで受けていた。
福沢の目は、その大きな落差が許せなかったのであろう。
戦場に散った兵士の国家への貢献も同様に讃えなければならない。
そのためには、戦死者の大祭典を挙行しなければならない、と福沢は主張した。
再度、時事新報の論説から引用する。
⇒「先般来、各地方に於いては戦死者の招魂祭を営みたれども、以て足れりとすべからず。更に一歩を進めて、地を帝国の中心なる東京に卜(ぼく)して此に祭壇を築き、全国戦死者の遺族を招待して臨場の栄を得さしめ、恐れ多きことながら大元帥陛下自ら祭主とならせ給い、文武百官を率いて場に臨ませられ、死者の勲功を賞しその英魂を慰するの勅語を下し賜はんこと、我輩の大に願う所なり」
要は、戦死者の遺族を首都東京に招待して、明治天皇自らが祭主となり、戦死者の大祭典を挙行することを福沢が求めたのだ。
天皇が戦死した兵士の功績を讃え、その英魂を慰撫する勅語を下すことが、死者とその遺族にとって最大の栄誉となる、と主張した。
そして、この論説発表後まもなくして、靖国神社では大寺安純少将を始め1500名の招魂祭が挙行された。
続いて、日清戦争の臨時大祭が行われた。
その三日に渡った臨時大祭の初日には勅使の差遣があり、二日目には大元帥である明治天皇自らが靖国に参拝したのである。
まさに、福沢の願いを聞き入れる形となった。
これが契機となって、靖国神社が戦没者を祀る聖地としての地位を確立したと指摘する者も多い。
小泉の言によれば、靖国神社で大祭典が実現したことで、「先生は聖恩に感泣したのであった」という。
(靖国神社の前身は、招魂社であり、創建は明治二年。その十年後に、社号を「靖国神社」と改称)
冷静に考えれば、福沢の言葉に明治政府が即座に反応したかのような事実は興味深い。
戦死者の慰霊について関心が高かった政府にとって、福沢の提案が「名案」と映ったために、採用したのであろうか。
いずれにせよ、福沢諭吉は、多くの分野で多大な影響力を持った人物であると言えよう。
先述のように、小泉信三の父、信吉は福沢の直接の門下生であった。
その縁で、信三は晩年の諭吉から随分と目をかけてもらったという。
また、福沢邸に小泉一家が同居していた時期もあったらしい。
親子二代で、福沢の薫陶を受けたことになる。
靖国と福沢の関係に話を戻す。
福沢の時事新報論説に応えるかのように、靖国神社で戦死者大祭が挙行されたことを以て、福沢を非難する人々もいる。
言うまでもなく、それは戦死者の遺族ではなく、大東亜戦後の自称・知識人たちの一部だ。
福沢を厳しく批判する者たちは、福沢の「愛国的・国権的」な面を攻撃したいのだろう。
その点については、また別の機会に記事にしたい。
ただ、福沢諭吉が筋金入りの愛国者だったことは、紛れもない事実だ。
小泉の解説によると、青年時代の福沢は、香港で清国人がイギリス人に支配される状況を目にした時、日本人もいつかはインド人や支那人、さらにはイギリス人をも支配して東洋の覇権を一手に握りたいと願ったという。
いやはや、なんとも。
今回は、この辺で。