ここの所、すっかり風格の出てきた磯貝を、同期は敬意をこめて「磯貝老師」と呼んでいる。
一方、なぜか、最近、『般若心経』にハマってしまった岡谷も、「空」に関しては一家言がある様子。
今回は、二人の対談となった。
岡谷:老師なんて言うと堅苦しいよな。磯貝~、俺も最近、仏教に目覚めてな、『般若心経』を読経する毎日を送っているよ。何と言っても、「空の思想」というか「空観」というか、「色即是空 空即是色」の言葉の響きと内容に魅力を感じているよ。
磯貝:うん、『般若心経』は短くてイイよな。読経しやすく、写経もたやすい。二百数十文字で大乗仏教の「空」を説いているから人気があるのもわかる。ただ、前にも話したように、釈迦仏教(初期仏教・原始仏教)が教える「空」と、大乗仏教の「空」では内容が大きく異なるんだよ。じゃあ、岡谷のほうから、般若系の「空」について説明してみてくれ。
岡:それじゃあ、俺の感触を言わせてもらうよ。「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」のあたりに「空」が出てくるけど、、、
磯:おい、岡谷~、その前に「照見五蘊皆空」ってあるよな。
岡:あ、そうだな、「照見五蘊皆空」の部分だな。ここは、五蘊がすべて「空」であると見極めたということ。五蘊とは、この世に存在するものを構成する五つの要素ということ。で、その五つの構成要素には実体がない、と言ってるようだ。う~ん、なんだかな~、言葉の響きはカッコいいだけどな、、、正直、ピンとこないんだよ。
森羅万象には五つの構成要素が「ある」と言っておきながら、その五つの構成要素には実体が「ない」ってことだろ?
磯:さすが、岡谷、いい点をついているよ!そこが、釈迦仏教と般若系の大きな違いなんだ。五蘊は、もちろん釈迦仏教からある概念だ。五蘊とは、言うまでもなく、「色・受・想・行・識」だ。「色」とは、人間で言うと肉体のことで、あとは外部にあるもの、木とか石とかビールとか。残りの「受」は、「感受する働き」、「想」は「いろんなことを考える働き」、「行」は「意思の働き」、そして「識」は「認識する働き」。
つまり、「色」は人間の肉体及び外部のものを表し、「受想行識」は人間の心的作用を意味しているわけだ。
岡:今までの磯貝の説明は、般若心経の五蘊のとらえかたと同じだと思うけどな、、、、どこが違うんだ?
磯:うん、般若心経の「照見五蘊皆空」とは、五蘊(=色・受・想・行・識)には実体がない(=空)との意味だよな?
岡:そうみたいだな、、、
磯:釈迦仏教では、五蘊は存在する、つまり、五蘊には実体があるとしているんだよ。要は、「五蘊にも実体がない」と主張する般若心経の立場と正反対だろ?
岡:確かに、、、、磯貝の説明のように、釈迦仏教「五蘊そのものは実体がある」VS『般若心経』「五蘊そのものにも実体がない」という図式か、、、、なるほど~、磯貝、いや、老師!
磯:岡谷はわかりが早いよ、でもな、この対立図式を約300年前の江戸の町人学者、富永仲基(とみなが なかもと)は独学で見抜いたんだからな。まさに、天才だよな。
岡:いや~、とんでもない大天才が江戸時代に存在したのか、、、、あれ、じゃあ、釈迦仏教の「空」と『般若心経』の「空」の違いは何なんだ?老師、この点を教えてくれ。
磯:おう、いよいよ、両者を分ける大事なポイントだな。「空」に関しては、最初期の経典に「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を「空なり」と観ぜよ」とある。人によっては、この部分を「ここに自分というものがある、という考えを除いて、この世界を「空」であるとみなさい」と解説したりしているな。
岡:「自我に固執する見解をうち破ろう」というのは、「自分に執着する気持ちを捨てろ」ということだろうな、、、釈迦は、人間の執着心が「苦」の原因だと喝破してるから。あと、「自我」の「我」も気になるところだな、、、もしかして、「諸法無我」がらみかな、、、
(注:「苦」の原因は執着にある、というのは釈迦の「四諦=四つの真理」の中の「集諦」のこと。「諸法無我」とは、「あらゆる存在には、不変の本質はない」という釈迦仏教の根本的な教え)
磯:岡谷の感じ方は、現代のテーラワーダ仏教の重鎮であるスマナサーラ師の考えとほぼ同じだよ。スマナサーラ長老は、さらに、「諸行無常」を加えて、釈迦仏教の「空」と同じだととらえている。岡谷~、おまえは鋭いよ。小乗仏教界の大物に匹敵する境地に達しているな~。
岡:おだてても、何も出ないぞ、ハハハ。
磯:いや、いや、たいしたもんだ。さすが、岡谷だ。俺たち、十代の頃に、初めて会って以来、ずっと付き合いが続いているよな。お互い、紅顔の美少年だったのが、今はすっかりオヤジだからな。まさに、「諸行無常」だよ。二人の体も、ぱっと見は、固いというか個体っぽいけど、実は無数の細胞の集まりだし、内部では常に入れ替わっている。今、目の前のいる相手を「実体」としてとらえているけど、釈迦仏教では、「五蘊」によってそう感じているだけだと言いたいんじゃないかな。
岡:そうか、雲なんか地上から見ると、ひとまとまりに見えるし、昔の人は、「固体」としてとらえていたんだろうな。しかし、実際は水蒸気やほこり、ちりが「かりそめに」集まっているだけだもんな。変化しない、堅固なものを見つけることができないと、釈迦が考えた上で、それを「空」と表現したと思っていいのかな。
磯:そう思う。確実に存在するのは、「五蘊」だけで、それ以外の現象はすべて実体がない、という見方が「空」なんだよな。うん、「見方」だよな。釈迦の世界観と言い換えてもいいと思う。つくづく、釈迦仏教って「宗教」っぽくないよな。一種の哲学みたいな感じだと、俺は常々感じている。
岡:おい、そこまではわかったけど、じゃあ、『般若心経』の「空」は五蘊も実在しないということだろ?あらゆる現象に実態がなくて、五蘊(肉体+心的作用)にも実体がないとしたら、、、、この世はすべて幻というか、釈迦仏教の「因果」も「諸行無常」も「諸法無我」も「一切皆苦」も存在しないということか、、、おい、要は『般若心経』は、釈迦仏教の否定なのか?!
磯:そういうことになるかな。一切の忖度なしで判断すると。
岡:でもよ、実体のあるものが全く存在しなかったら、この世の成り立ちが説明できないだろ。釈迦仏教の「因果」を持ち出すまでもなく、この世界には、普通に、様々な因果関係が現実に存在しているからこそ、今、こうして二人で議論してるんだろ。
磯:その通り。般若系の経典の主張は、自分たちの「空」は、釈迦仏教の「因果」を超越した神秘の力を持っているということ。般若経典の「空」は、人智を超えた不思議な力を持っているし、言葉や理屈では説明できないものだ、と説いているんだな。この超越的な力がこの世を成立させている、と般若系側は言っているわけだ。
岡:なんか、オカルトっぽいというか、スピリチュアルというか、、、しかし、冷静に考えると、『般若心経』の中には気になる部分があるんだよ。終りの方に、「是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒 能除一切苦 真実不虚」ってあるだろ。「咒」はもちろん、真言(=マントラ=呪文)と解釈していいよな?
磯:またまた、イイところを突くよな、岡谷は。毎日、唱えているだけのことはあるな。岡谷の指摘どおりで、つまり、『般若心経』は自分で「このお経は最上、最強、万能の呪文だ。唱えれば、すべての災難・苦・魔を取り除く強烈無比の呪文だ」と宣言していることになる。だから、オカルトと言えばオカルトだし、スピリチュアルとみればスピリチュアルだよ。
岡:なるほど、だから、『耳なし芳一』を始め、説話・物語で悪霊や怨霊を退散させるのに、『般若心経』が登場するんだ。なんか、ある意味、理にかなっているな。う~ん、俺は毎日、最高の呪文を唱えているってことだ。
磯:そういうことになるかな。どうだ、最近、なんかイイことがあったか?
岡:まあ、平穏無事で、特に問題なしかな。よし、今日はこんなとこで。最後に、ちょっとまとめさせてもらう。
*五蘊に関して
釈迦仏教=五蘊は実在する
般若経典=五蘊も実在しない
*空に関して
釈迦仏教=実体がない=釈迦仏教の根本教義をまとめたもの(無常+無我+苦)
般若経典=実体はないが、この世を成り立たせている人智を超えた神秘の力
こんな感じでよろしいでしょうか、磯貝老師。
磯:うむ、よかろう、な~んてね。ハハハ。今日は、楽しかった。また、やろうぜ。
岡:大変勉強になりました、老師、またよろしくお願いします。