比叡山に親近感があった秀吉、焼き討ちから僧を救う

秀吉は比叡のお山に対して親近感のようなものを持っていたのではないだろうか。
だからこそ、比叡山焼き討ちの際に、延暦寺の僧を逃がしたのではないだろうか。

以上は、歴史はまったくの専門外、ただの素人である当ブログ主の妄想である。
以下の記事は、前回の『比叡山焼き討ち その時秀吉は、、、、』の続編。

さて、この妄想を支えるキーワードは、秀吉の愛称?である「猿」と彼の幼名である「日吉丸」の二つ。

まずは、事実を並べる。

*比叡山のふもとにある日吉大社は、全国に約3800社ある日吉・日枝・山王神社の総本宮である。
*そもそも比叡山とは、もともと「日枝の山」ということである。
*古くは、「日枝」「比叡」と書いて「ひえ」と呼ばれていたが、のちに縁起の良い「吉」に替えるようになった。
*「日吉」は「ひえ」とも「ひよし」とも訓む。

秀吉の幼名は「日吉丸」である。
その名の由来を、小瀬甫庵『太閤記』(原本現代訳 教育社新書)より引用、
『母が懐の中に太陽が入る夢を見て妊娠して誕生したという。そのことから幼名を日吉丸と名付けたという』

さらに、事実を並べる。

*日吉神社の御祭神は天照大御神(=太陽神)である。
*日吉神社の神のお使いは猿であり、大切にされている。
*最澄が延暦寺を建立した後、日吉大社を地主神とし、比叡山と天台宗の守護神として崇敬した。

秀吉の愛称?は「猿」である。

小瀬甫庵『太閤記』より、
『まるで猿のような顔をしておるが、気がきいて使えそうな男だ、家来にしよう』
『この言葉が、どうしたことか信長公のお耳に入り、猿め何をいうのか。どうせよというのかときつく問われた』

確認だが、*のあとの記述は事実である。

もうひとつ、事実であれば、ブログ主の妄想の好材料になるのは秀吉の生まれた年である。
これに関しては、1536年説と1537年説の二つがある。
ありがたいのは、1536年説で、この年の干支が申(さる)にあたるのだ。
ここでは、妄想のために、申年生まれ説を採用する。(残念ながら、1537年説の方が有力らしいが)

昔の人々が生まれ年の干支を自分の守り神として大事におもうことは珍しいことではない。
申年生まれの秀吉が、猿に親近感のような感情を覚えていた可能性は否定できない。

では、今からブログ主の妄想が、、、

「母ちゃんのお腹の中に、お日様が入ってきて、できたのがおまえだよ。だから、おまえはお日様の子なんだよ」と幼きころから母に言われて育った日吉丸。

「おまえは申年うまれだから、お猿さんを大切にするんだよ。お猿さんがおまえを守ってくれるから」
「お日様とお猿さんがいつもおまえを助けてくれるよ」と常に言い聞かせる母。

このように、秀吉は「日吉=太陽」「猿=自分の守り神」という二つのキーワードを自己暗示のように脳に刷り込んで成長する。

長じるにつれて、日吉神社の存在を知る秀吉。
自分と同じ名前の神社、しかも、その神社のお使いは自分の干支と同じ!
秀吉はこの一致に喜び、親近感を覚えたに違いない。

信長に仕えると、「猿」の愛称?で呼ばれるようになる。
申年生まれで、猿を自分の守り神のように感じている秀吉には、この信長からの「猿!」は歓迎すべきものだったのではなかろうか。

と、ここまで妄想を膨らませると、あとは一直線

⇒秀吉にとって比叡山は「日吉の山」であり、日吉大社も含めて「聖」なる存在である。
⇒日吉大社が延暦寺の守護神なら、自分も延暦寺と大いに縁がある。
⇒しかし、主君信長の命令に表立って逆らうわけにはいかない。
⇒ならば、せめて僧や非戦闘員は逃がせるだけ逃がしてやろう。

まあ、歴史素人の単なる妄想。
秀吉の生まれ年も自分の妄想に都合がいい方を採用するし、、、
専門家から見れば、笑止千万な紙屑のような記事かもしれないが、あくまで素人の妄想。

しかし、数百年前に何が起こったか、何が起こらなかったのは、正確には誰にもわからないのでは。