当ブログで、愛知県西尾市三ヶ根山の「殉国七士廟」を紹介した。
この廟には、殉国七士の遺骨が眠っている。
今回の記事では、七名の日本人がこの場所に祀られるに至った経緯を説明したい。
東京裁判という、それ自体が当時の国際法違反の茶番劇で、連合国側は日本の軍人や文官を一方的に制裁した。
要は、勝者の敗者に対する凄惨なリンチである。
それまでに存在しなかった「A級戦犯」とかいう濡れ衣を着せられ、処刑されたのが殉国七士である。
刑が執行されたのは、昭和23年12月23日、午前0時過ぎであった。
◎ 米軍の動き
米軍は、かねてより七名の遺骨が遺族に戻ったのちに、神聖化・神格化されることを恐れていた。
23日の午前2時ごろ、遺体は米軍のトラックで巣鴨プリズンから、横浜の久保山火葬場に運び込まれた。
GHQは遺族側からの遺体引き渡しに応じず、火葬した後に太平洋上に遺灰を散布する計画を立てていた。
そして、予定通り、七名の亡骸は久場山火葬場で荼毘に付された。
◎ 日本側の動き
米軍が遺骨を返還しない旨を、心ある日本人は察知していた。
東京裁判で被告側弁護人を務めた、三文字正平氏と林逸郎氏である。
GHQの計画を知った二人は、久保山火葬場の責任者と隣接する興禅寺の住職と相談して、遺骨奪還を誓う。
深夜、闇に紛れて潜んでいた三文字たちは、火葬後に休憩中の米兵が現れない隙に乗じて、遺骨を丁重に扱いながら線香をあげた。
慌てて、遺骨を回収しないところに、日本人ならではの故人に対する深い哀悼の気持ちが見てとれる。
◎ 敵もさるもの
ところが、別室でくつろいでいた米兵のところに、線香の匂いが届き、慌てた兵士たちが火葬場に殺到する。
三文字たちは、遺骨を残したまま、その場を離れるしかなかった。
野蛮な米兵らは、七つに分けていた遺骨を乱暴に粉砕してから、箱の中につめて持ち去った。
大切な骨を米兵士が乱雑に扱ったせいで、細かい骨片が床にこぼれ落ちたが、拾おうともせずに側溝(ある資料では、「骨捨て場」とある)に投げ捨てて姿を消した。
◎ 日本人の執念
粗暴な米兵が消えた後、使命感に燃える日本人は再度、火葬場内に戻ってくる。
そして、故人に対する深い弔意を胸にしながら、散乱した小さな骨を苦心しつつ丁寧に拾い集めたという。
七人の遺骨が混じり合った状態ではあったが、骨片の集合は骨壺一つ分の量に相当したらしい。
三文字氏や林氏らの執念にも似た誠意というべきか、これらの日本人の熱き思いによる奮闘努力によって、殉国七士の遺骨の一部が確保されたのだ。
◎ その後
この遺骨は、一旦、葬儀場と隣り合った興禅寺に保管されることになった。
しかし、もし発覚したら、関係した者はGHQから処罰されるのは間違いない。
そこで、遺族と三文字氏らが協議して、殉国七士の一人である松井石根の熱海の別邸へと、秘密裏のうちに移すことになる。
その後、昭和24年に七名の遺骨は、別邸の向かいにある興亜観音に移された。
この興亜観音は、昭和15年に松井石根が私財を投じて、熱海市伊豆山に建立したものである。
遺骨を預かることになった興亜観音の関係者は、骨壺を敷地内に埋めて秘蔵した。
それでも、時々、不安に駆られて、保管場所を変えるために、何度も掘り返しては埋め直したという。
GHQによる占領政策も終わり、昭和27年にはサンフランシスコ平和条約が締結。
すぐさま、三文字弁護士らは七人を弔う廟の建設運動を開始した。
その後、東京で極東国際軍事裁判弁護団解散記念会が開催されたとき、三文字氏を中心に「殉国七士」の墓碑建設が正式に発表される。
周知の通り、殉国七士廟は昭和35年に完成する。
興亜観音から、遺骨のうち香盒(こうごう=香を入れる容器)一杯分を分骨してもらい、七士廟に埋葬した。
◎ おわりに
七名の遺骨をめぐるGHQの海上散布計画と日本人有志による奪還作戦の顛末は、まるで短編小説を読むような趣きがある。
米軍兵士の乱暴な仕事ぶりを見ると、腹が立つ部分が多いが、連中が細かい骨片をかなり残していったからこそ、三文字氏たちが一部でも遺骨回収に成功した事実がある。