NHK朝ドラ『らんまん』、大人気。
本日、令和5年9月12日放送回に、満を持して南方熊楠、登場!
といっても、本人役の俳優が出た訳ではない。
熊楠から万太郎宛の手紙と大量の植物標本が届いただけ。
それでも、うれしい、熊楠ファンの身には。
柳田国男をして、「日本人の可能性の極限」と言わしめた南方熊楠。
かたや、「日本植物学の父」と讃えられる牧野富太郎。
助手や講師として東京帝国大学というアカデミズムに属した牧野。
終生、組織に属さず在野の研究者として世界を相手にした熊楠。
好対照の二人ではある。
だが、共通点も多い。
ともに、裕福な商家に生まれる。
幼き頃より、好きなものに没頭する。
熊楠も牧野も語学に堪能、そして博覧強記。
己の道を突き進む際には、周りが見えなくなることもしばしば。
ところが、「両雄並び立たず」というか二人の関係はちょっとギクシャクしていたようだ。
素人が勝手なこと書いて申し訳ないが、どうも牧野博士のほうが熊楠のことをおもしろくないと感じていたフシがある。
しかし、冷静に考えると、これも仕方のないことかもしれない。
熊楠が生前に刊行した著作単行本は三点(『南方閑話』『南方随筆』『続南方随筆』)である。
タイトルから想像できるように、これらは植物学関係の専門書ではない。
牧野博士が、「なぜ世間は南方君を大植物学者と呼ぶのか」と疑問に感じたのも十分納得できる、今となっては。
一方の、牧野博士は生前から、『牧野日本植物図鑑』をはじめ数々の著作を世に出している。
また、熊楠は牧野博士に400以上の植物標本を送ったり、植物の鑑定を依頼したことがあることから、博士は熊楠を弟子のようにとらえていた様子がうかがえる。
ただ、以下の引用部分は牧野富太郎の完全な誤解である。
「南方君が不断あまり邦文では書かずにその代わりに欧文でつづり、断えず西洋で我が文章を発表しつつあったという人があり、また英国発行の“Nature”誌へも頻々と書かれつつあったようにいう人もある。按ずるに欧文で何かを書いて向こうの雑誌へ投書し発表したことは、同君が英国にいられたずっと昔には無論必ずあった事でもあったろうが、しかし今日に至るまで断えずそれを実行しつつ来たという事は果たして真乎、果たして証拠立てられる乎」
以上の牧野博士の文章は、熊楠の死の翌年、昭和17年の『文藝春秋』二月号に掲載された追悼文『南方熊楠翁の事ども』の中の一節である。
では、どこが誤解なのか。
熊楠が『ネイチャー』や『ノーツ・アンド・クィアリーズ』に発表した英文論考は、実は在英時代よりも帰国後のほうが数が多い。
つまり、牧野博士の上記の発言は認識不足。
信じられない方は、『南方熊楠全集 10』(平凡社版)で確認のほどを。
この全集に収録されている英文論考にはすべて、発表雑誌の巻号数等の表記が入っている。
(例)Colours of Plasmodia of Some Mycetozoa No.2243, Vol.90, Oct.24, 1912
しかし、この点も、時代背景を考えると、仕方のないことかもしれない。
熊楠が英国の有名雑誌に英文論考を発表していたのは、1893年から数十年間のこと。
ネットもスマホもない時代。
海外の雑誌の情報など簡単に手に入るはずがない。
当時の日本人で、先ほど挙げた二誌を購読していた人がどれほどいたか。
牧野博士が熊楠の英文論考投稿に関する詳細な事実を知らなくても当然だ。
結局、当時の知りえた情報をもとに、二人は互いを認識していたことになる。
牧野博士が熊楠に対して若干「上から目線」なのも理解できる。
当時の博士の心情を勝手に推測すると、
・自分は熊楠からの植物鑑定依頼を受けている(=私は彼の師匠だ)
・専門書の刊行では熊楠は自分の足元にも及ばない
・自分は理学博士だが、熊楠は無位無官の身だ
まあ、素人の勝手な想像だが、様々な思いから、上で引用した『南方熊楠翁の事ども』を博士は執筆された。
そして、その一部の内容が、熊楠ファンにとっては「聞き捨てならず!」につながったのであろう。
私のような素人は外野からいろいろ言いたがる。
少し、控えねばと考えているところ。
結局、ハッキリしているのは、二人とも不世出の「知の巨人」であること。
そして、これからも、両者の業績は後世から讃えられるということだ。
話を朝ドラ『らんまん』に戻したい。
この先の展開が楽しみだ。
熊楠を演じる俳優が登場するのか?
それとも、手紙と標本だけ?
気になって仕方がない。
明日も視聴する。
明後日も、明々後日も!