暗黒のフランス革命 ~ 欺瞞と陰謀と虐殺の軌跡 その4

前回の「その3」で、1789年7月14日に起こったバスティーユ襲撃あたりまで触れたと思うので、今回はその後の経緯へと話を進めたい。
しかし、再度、バスティーユ牢獄占拠の前後に関して、大事な点を以下に列挙したい。

*89年のバスティーユ牢獄襲撃が、民衆蜂起の起点ではないこと
*数年前より、フランス社会は混乱・疲弊していたこと
*当時のバスティーユ牢獄にはいわゆる「政治犯」は一人も収容されていなかったこと
*当時、フランスのほとんどの都市で民衆や貧民による騒乱・暴動が頻繁に起きていたこと

さて、7月14日のバスティーユ牢獄占拠に続き、全国的に農民蜂起が起こり、貴族領主の館が襲撃された。
当初、議会の多数派は武力で反乱を鎮圧しようとした。
しかし、議会はその強硬策を変更し、8月4日に旧体制の基礎である「封建制」の廃止決議を行う。

◎ なぜ、武力鎮圧戦術から、一転して、「封建的特権の廃止」へと舵を切ったのか?

この転換の立役者は、自由主義貴族であるノワイエ子爵とエギヨン侯爵の発言であった。
ノワイエ子爵が、会議上、最初に特権と領主権の廃止を提案した。
その後を受けて、エギヨン侯爵が前者の提案をやや修正しながら支持する。

*ノワイエ子爵(1756~1804年)はラ・ファイエットの義兄弟。
アメリカ独立戦争に参加後、三部会に選出される。

*エギヨン侯爵(1761~1800年)は、当時、国王に次ぐ大資産家で大土地所有者であり、最も熱烈に革命を支持した有力貴族であった。
8月4日の議会で、貴族特権の廃止を提案する。

上記の二人の有力かつ自由主義的な貴族が発言がしたからこそ、議会は封建制を廃止するに至ったのだ。
だから、「フランス革命=市民(ブルジョワ)革命」という単純な図式は、皮相的である。
そもそもの出発点からして、1787年に貴族の反抗によって絶対王政が麻痺したことが革命の大きな要因であった。
フランス革命に関しては、貴族が非常に大きな役割を担っていた事実を忘れてはならない。

◎ 8月4日の決議以降の流れ

8月4日の決議は、若干の修正を経たのち、8月11日までには法令として成文化された。
これに伴い、農民の反乱も沈静化する。

8月の法令によって廃止されたものは、領主裁判権、狩猟権、賦役、教会への十分の一税など。
さらには、一部の都市や州が持っていた特権が廃止され、地域間の差別が解消された。
また、官職売買の制度も撤廃され、あらゆる人々が公職につけるようになる。

しかし、農民が領主に対して支払う領主地代(物的権利)に関しては、事情が異なる。
これは、農民が一定額の貨幣または、現物(作物)で収めるもの。
この領主地代に関しては、廃止が有償(買い戻し)であったため、農民が土地を獲得することは困難であった。
要は、すべての権利を無償で放棄するように領主に求めることを、貴族、特に、エギヨン侯爵が避けたのだ。

そして、8月26日、憲法制定国民議会は「人間および市民の権利の宣言」(=「人権宣言」)を採択する。

◎ 「人権宣言」

ラ・ファイエット(1771~1792年)らが起草したもの。
ラファイエット(以下は、「・」を省略する)はフランス生まれの貴族かつ軍人かつ政治家である。
爵位は「侯爵」であり、フランスでも指折りの名家の出だとされる。

人権宣言の起草の中心となったのが、名門の貴族であることからも、フランス革命の本質が窺える。
何度も繰り返したが、日本の左翼・リベラルのいう「フランス革命=市民革命」という単純化は、あまりにも浅薄な見方と言える。

ラファイエットは、1789年に「三部会」に選出され、憲法制定国民議会の設立後に人権宣言の作成を手伝う。
人権宣言はアメリカ独立宣言などに影響をうけているようだ。
また、ロックやルソーなどの哲学者の唱えた諸理論・諸説などとの関連が深いという。

大雑把に言うと、人権宣言はフランスの過去の体制を否定したものである。
そして、新たに、実現すべき理念を提示したものだが、、、

追記
人権宣言については、また改めて記事にする予定。
その中で、人権宣言の持つ「宗教臭」に焦点をあてたい。