さて、今回は日蓮正宗と創価学会についてです。
最初に、お断りしておきますが、ブログ主は日蓮正宗とも創価学会とも全く関係ありません。
ここから、本題に入ります。
まず、日蓮正宗は鎌倉時代に興った宗派で、創価学会は昭和の時代に誕生した「創価教育学会」がその原型です。
両者は1990年代に決別するまでは、出家側(日蓮正宗)と在家側(創価学会)として連携していました。
では、日蓮正宗を見ていきましょう。
◎日蓮の高弟の一人である日興を宗祖とする。
日蓮には六人の高弟(=六老僧)がいました。
日蓮没後、この六人による集団指導で日蓮宗を運営していました。
その中の一人、日興が身延山久遠寺を離れて富士山麓に移住し、日蓮正宗を興しました。
◎日蓮宗側と日蓮正宗側とで主張が異なる。
日蓮正宗⇒日蓮が死を前に、日興を第二祖と定めて仏法の一切を付嘱した。
日蓮宗⇒日蓮正宗側の主張は事実ではない。
*ブログ主には判断できませんので、両論併記しております。
◎日蓮正宗について
総本山は大石寺(静岡県富士宮市)
教義の特徴は以下の3点
・日蓮本仏論⇒日蓮こそが人々を救済する本仏であるとする考え方です。
・板曼荼羅本尊⇒楠の板に掘られた「南無妙法蓮華経」の曼荼羅を本尊とする教えです。
・血脈相承⇒日蓮正宗の法主にのみ「日蓮の教え」が受け継がれているとする立場です。
日蓮を本仏とする⇒日蓮への個人崇拝⇒一神教的性格が見て取れます。
板曼荼羅⇒「曼荼羅」から密教の影響が窺えます⇒日蓮が比叡山で密教を学んだことの証拠でしょう。
血脈相承⇒正統派意識の強さ⇒排他的な性格を持つ契機となりそうです。
では、続いて創価学会を見ていきましょう。
創価学会は、日蓮正宗の信徒組織として活動を開始しましたが、1990年代に日蓮正宗から破門されました。
創価学会の沿革をごく簡単にまとめました。
◎1930年に創価教育学会が誕生
小学校の校長を歴任した牧口常三郎が当初、教育団体として設立しました。
その後、牧口が日蓮正宗を信仰するようになり、創価教育学会は日蓮正宗の信徒組織となっていきます。
当然、教育団体から宗教団体へと性格が変化していきます。
◎牧口の死と二代目の戸田城聖
1943年、治安維持法違反により牧口は逮捕され拘置所の独房に収監され、翌年に獄死します。
牧口とともに収監された戸田城聖は1945年7月に釈放されました。
戸田は大正時代から、牧口と交流があり、創価教育学会では会長の牧口についで常務理事の立場にありました。
◎創価学会への改称
1946年3月に戸田は創価教育学会を「創価学会」と改称し、組織の再建をはかりました。
1951年5月に戸田は創価学会の第二代会長に就任します。
当時の創価学会の会員数は5000人程度、世帯数にして1000世帯程度であったといいます。
◎戸田体制下での急成長
1951年の末=5700世帯
1953年=7万世帯
1954年=16万世帯
1955年=30万世帯
1958年=100万世帯 この年に戸田は亡くなりました。
◎その後の成長と三代目の池田大作
1960年=150万世帯越え
1964年=500万世帯越え
池田大作が三代会長に就任したのは、1960年5月のことでした。
1960年代以降も、池田体制下で会員数を順調に伸ばしていきます。
現在、創価学会は827万世帯(公称)の会員を擁する巨大教団へと成長しました。
◎日蓮正宗と創価学会の軋轢・確執・決別
1977年に創価学会は日蓮正宗からの独立を目指しますが、失敗しました。
池田は大石寺に赴き謝罪、さらには会長職を降り、名誉会長となります。
その後も、火種はくすぶっていました。
そして、1990年7月に両者の連絡会議で学会側が正宗側を批判しました。
その後のやり取りの後、91年11月に日蓮正宗が創価学会を破門し、現在に至ります。
*創価学会に関しては、ネット上でも様々な噂や意見が目につきます。
しかし、当ブログでは日蓮正宗と創価学会の概要というか沿革を紹介するにとどめておきます。
昨年、11月に池田大作は95歳で天寿をまっとうしました。
今後の創価学会の動向にも多少の興味があります。
*冒頭でも書きましたように、ブログ主は日蓮正宗の信徒でもないし、創価学会の会員でもありません。
どちらの肩も持たない記述をしたつもりですが、、、