日本戦後史・もうひとつの進駐軍 ~ 英連邦軍とは何か?

最近、当ブログで連合国軍(実質はアメリカ)による戦後日本の占領政策について何回か記事にしました。
常連さんたちから高評価やコメントをいただき、感謝する中で、どうせなら少々マイナーな事実も挙げようかなと言う気持ちに。

それが、今回、紹介する「英連邦軍」です。

◎英連邦軍とは何か?

⇒1945年の時点で英連邦構成国であった中の数か国が進駐軍として日本占領に参加したもの。
⇒参加国はイギリス、オーストラリア(以下、豪)、ニュージーランド(以下、新西蘭)、インド(当時はイギリス領)の四か国。
⇒カナダはヨーロッパにおける任務優先のため参加せず。

◎GHQの中での位置づけは?

⇒GHQのトップであるマッカーサーとノースコット英連邦軍総司令官が会談し、「マッカーサー・ノースコット協定」が妥結。
⇒軍事面においては、英連邦軍は連合軍の指揮下に入る。
⇒ただし、兵站などの管理面では、英連邦軍は独立。
⇒マッカーサーの意向で、英連邦軍の任務は日本軍の武装解除などの非常に狭い領域に限られた。
⇒軍政面は米軍(=マッカーサー)が握っていたため、実質的には「GHQ=アメリカ」の構図となった。

◎日本のどの地域に英連邦軍は展開したのか?

⇒英連邦軍の司令部は広島県の江田島。
⇒部隊や施設が配置されたのは、中国・四国地方が中心だが、大分県別府市にも一部隊が置かれた。
⇒司令部は広島県に設置されたが、県内においても軍政への参加はできなかった。
⇒英連邦軍は1946年2月、日本に上陸開始し、46年5月にはほぼ進駐が完了した。
⇒46年12月における兵力は約3万7000名。

◎いつまで日本に留まっていたのか?

⇒1947年に英領インド陸軍が帰国、48年には新西蘭陸軍が撤退するなど規模を縮小させていく。
⇒インド軍の撤退には、その当時に急展開を見せたインドの独立問題が大きく絡んでいる。
⇒47年1月、インド制憲議会が独立宣言決議案を可決し、英も48年6月までに主権を移譲することを表明。
⇒イギリス軍などは、46年10月に早くも部分的な撤収を検討し始め、47年の終わりにはほとんが帰国した。
⇒イギリスの早期撤退には、先述のインドを始めとした各植民地の独立問題や英本土の疲弊などが関係していた。

◎孤軍奮闘(?)したのは豪だったが、、、

⇒豪政府は、英・印・新の連邦軍離脱を食い止めようとしたが、かなわなかった。
⇒1950年3月には、英連邦占領軍の兵力は、わずか2350人ほど(最盛期は約3万7千人)まで落ち込んだ。
⇒豪も全面撤退を決定し、アメリカも50年5月にそれを承認したのだが、、、

*ここで、事態が急変!
1950年6月25日、朝鮮戦争の勃発である!
さて、この朝鮮半島の一大事が英連邦軍と日本に多大な影響を及ぼすことになるのだが、、、

残念ながら、この件は非常に大きいテーマであるため、今回の記事では触れることはできない。

◎おわりに

日本人の多くにとって、この「英連邦軍」があまり馴染みがないのは、仕方がない(⇐便利な日本語!)といえる。
とにかく、「進駐軍=アメリカ=マッカーサー」のイメージが強すぎるのだ。
その強烈な印象は、マッカーサーの思惑と行動によるところが大である。

マッカーサーは対日占領政策において、関係する委員会や理事会の存在を軽視するばかりか、アメリカ本国政府の関与すら嫌ったのである。
その意味では、まさに独裁者であった。

加えて、前述した「マッカーサー・ノースコット協定」により、米軍以外の占領軍を軍政にタッチさせず、その活動をごく狭い分野に限定した。
従って、英連邦軍が存在感を発揮できなかったのも当然というか、マッカーサーの狙い通りであった。