日本国憲法成立史(超大雑把です)と白洲次郎による裏話

今回は、超大雑把に日本国憲法の成立過程の振り返り。
本当に、極々かいつまんでの記述だから、詳しいひとには物足りないかも。
それに加えて、裏話的なものとして白洲次郎の知り得た情報も少しだけ紹介。

◎昭和20年10月4日
GHQのドン、マッカーサーが近衛文麿に憲法改正に向けて動くように打診する。

◎10月11日
マッカーサーは幣原内閣に対して憲法改正の作業を開始するように示唆する。

*つまり、二つの憲法改正作業が同時進行することになる。
マッカーサーは、一体、何がしたかったのか?

◎幣原内閣は憲法問題調査委員会を設立し、その委員長に松本丞治国務相を任命。
10月27日に、第一回委員会開催、その後22回にわたって討議を重ねる。

◎11月22日
近衛は憲法改正私案を脱稿して天皇に奉答した。
しかし、政府はこれを無視。
この奉答書は、昭和36年に総理官邸内の内閣参事官室の金庫から発見されるまで、闇に葬られていた。

◎昭和21年1月4日
松本私案脱稿

◎2月1日
毎日新聞が松本私案をスクープ。

*しかし、実はGHQは日本政府に改正案を準備させながらも、同時に自分たちで新しい憲法の草案を作成中であった。
その草案の担当はGHQの民政局であった。
しかも、このGHQ草案は、わずか一週間で完成したという。

◎2月13日
この日は、事前に日本側が提出した松本私案を両者で検討する場のはずであった。
ところが、GHQ側は日本の案を「内容が受け入れられない」と協議を一方的に拒否。
その場で、いきなりGHQ草案を日本代表に手渡し、すぐに目を通すように要求。

*つまり、第一回目の予備交渉だと思っていた日本側を完全にだまし討ちにしたのである。
今回は、割愛するが、戸惑う日本代表に対して、GHQ草案を受け容れなければ、天皇を軍事裁判にかけるとか、原子力のどうのこうの(=原爆のことか)という恫喝がなされたいう(あ、書いちゃった)。

◎その後
日本政府とGHQの間で協議がなされ、微調整は入ったが、大筋は民政局の草案が通ったかたちとなった。

昭和21年11月3日 日本国憲法公布

昭和22年5月3日 同憲法施行

◎白洲次郎の情報

*白洲以外にも、多くの人が指摘しているように、草案を担当した民政局には憲法の専門家はいなかったという。
要は、白洲の言葉を借りると「幼稚な理想論を丸呑みにして実行に移していった」のがGHQ草案のようだ。

*憲法の一部は大学生の作文?!
白洲によると、GHQ憲法草案に関係した米高官はいかにして作成したかを自慢たっぷりに吹聴するし、その夫人にいたっては自分の大学生の息子が草案の一章だか一項かを書いたと親バカ丸出しで公言していたのこと。
二十そこらのアメリカの若者が関わった憲法などには、個人的にはなんの有難味も感じないが、、、

戦後史の重要な場面に立ち会った白洲の言葉を再度、引用すると、「はじめて化学の実験をした子供が、試験管に色々の薬品を入れて面白がっていたと思えばまあ大した間違いはなかろう」という評が当てはまるのがGHQの対日占領政策であり憲法草案のようだ。

◎おわりに
今回は現行の日本国憲法の成立過程を超駆け足で紹介。
結局、現在の日本国憲法とはGHQ憲法に他ならない。

文中の白洲次郎の発言は、『プリンシプルのない日本』(新潮文庫)から引用した。

このあたりの戦後史は興味深い事実が多い。
また、機会を見ながら、記事にすることもあるかも。