日本で初めて、ビールを造った人物はだれか?
ちょっと調べてみたら、以下の三人の名前が出てきた。
*長崎出島のカピタン、フレデリック・ドゥーフ
*高野長英(たかのちょうえい)=江戸時代の医者・蘭学者
*川本幸民(かわもとこうみん)=幕末・明治維新期の医者・蘭学者
資料等で確認する限りでは、川本幸民が醸造したビールが日本初であろうとのこと。
しかし、本記事では、時代的に一番古い、オランダ人のドゥーフに焦点を当てたい。
◎フレデリック・ドゥーフ(1777~1835)とは
長崎出島のオランダ商館長(=カピタン)を1803年から1817年まで務めたオランダ人。
ちなみに、「カピタン」は英語で表記すると、もちろん、「captain」であり「船長・隊長」の意味である。
このドゥーフが、参考文献をもとに、ビール味の液体を造ったと、自著の『日本回想録』に書いているそうだ。
ただ、今日の専門家の考察では、ドゥーフのビール(?)はホップを用いずに、発酵も十分ではなかったと見られており、本物のビールとは異なるものだったと推察される。
◎ドゥーフは剛毅な人物
ドゥーフを高く評価する日本人は多い。
ある史家は、「実に出島が日本の「香港」たることを免れたのは、快漢ドゥーフに負うところ多いと言わねばならぬ」と褒めたたえている。
高名な歴史家から「快漢」と称賛されたドゥーフの具体的な活躍を以下にみていこう。
◎フェートン号事件(1808年)における、ドゥーフの貢献
1808年、イギリスの軍艦が、オランダ国旗を掲げて長崎港に侵入した事件。
オランダ船のふりをするとは、いかにも海賊国家イギリスのやりそうなことだ。
激怒した長崎奉行は、この海賊船を焼き払うつもりであったが、ドゥーフが思いとどまる様に奉行の松平康英を説得した。
もし、日本側から戦端を開いていたら、後に英の圧倒的な軍事力で報復されていただろう。
当時の世界情勢、イギリスの戦力等を熟知したドゥーフの賢明なるアドバイスのおかげで、日本は戦禍に見舞われることを回避できたのだ。
◎1813年にもイギリス船が長崎に襲来
イギリスなる海賊国家は、一度狙った獲物は執拗に追い求める、執念深さを持つ。
1813年、イギリス商船二隻が、またもやオランダ艦を偽装して長崎に襲来する。
その目的は、長崎出島のオランダ商館とその商権を英国の手中に収めることであった。
この時、傍若無人国家イギリスに敢然と立ち向かったのが、ドゥーフであった。
豪胆にして冷静なドゥーフは、英の出島引き渡しを断固として拒絶した。
しかも、この事件の際には、日本側に事の詳細を伝えずに、自分一人の当意即妙な交渉術でイギリス側を操り、同国艦船を帰航させたのである。
もし、長崎の官憲が事情を知り、短絡的な措置をとっていたら、イギリスに開戦の口実を与えていたに違いない。
ドゥーフは自身に振りかかった難局を切り抜けると同時に、日本人が知らないうちに、その危機を救っていたのだ。
知勇兼備のオランダ人カピタン、ドゥーフの八面六臂の活躍がなかったならば、長崎出島は日本の「香港」と化していただろう。
◎おわりに
日蘭関係におけるドゥーフの功績は、他にも多々ある。
ひとつだけ紹介すると、蘭和辞典の編纂である。
ドゥーフは、蘭仏辞典を参考にしながら、日本語通詞を雇って、蘭和辞典の作成に着手し、1833年に完成させた。
この辞書は『ドゥーフ・ハルマ』とか『長崎ハルマ』と呼ばれて、日本の蘭学研究に貢献した。
ちなみに、「ハルマ」とは、元になった蘭仏辞典の作者であるフランソワ・ハルマにちなんだもの。
フランソワ・ハルマの蘭仏辞典は、江戸の蘭学者たちの努力によって、日本最初の蘭和辞典『ハルマ和解』として、1796年に完成をみた。
この『ハルマ和解』は、後発の『ドゥーフ・ハルマ』と区別するために、『江戸ハルマ』とも呼ばれる。
快漢ドゥーフに関しては、まだまだ、様々な逸話があるが、今回はここまでとしたい。
祖国オランダの名誉を守り、赴任先である日本の国難を救ったドゥーフの名前は多くの日本人に記憶してほしい。