昭和11年の「二・二六事件」は、陸軍にとっては大不祥事であった。
本来ならば、徹底的な内部改革を断行しなければならないのが筋のはず。
ところが、現実には、陸軍は一種の開き直りを見せ、態度をさらに硬化させた。
いざとなれば、実力行使(=要人暗殺)をちらつかせるような振る舞いを改めなかったのである。
この陸軍の傲慢さには、心ある多くの政治家たちが腹に据えかねていた。
その中の一人が、今回紹介する、浜田国松である。
昭和12年1月21日の第七十帝国議会においての一幕。
浜田国松、前衆議院議長が質疑に登壇する。
現代の日本人には、少々読みずらい文章かもしれないが、、、、
浜田氏の発言は
「軍部は近年みずから呼称して、我国政治の推進力は我等にあり、乃公(だいこう)出でずんば蒼生(そうせい)を如何せんの概がある。五・一五事件然り、二・二六事件然り、軍部の一角より時々放送せらるる独裁政治意見然り、議会制度調査会における陸相懇談会の経緯然り、満州協和会に関する関東軍司令官の声明書然り。要するに独裁強化の政治的イデオロギーは、常に滔々として軍の底を流れ、時に文武恪循(かくじゅん)の堤防を破壊せんとする危険のあることは国民の均しく顰蹙するところである」
(注)
*「乃公出でずんば蒼生を如何せん」⇒この自分が出馬して行動しなければ、世の人民はどうなるであろうか=世に出ようとするものの気負いを表す表現
*「文武恪循」⇒文官と武官がそれぞれの職責を謹んで果たすこと
以上、二つほど注をつけた。
さて、このように、浜田国松は質疑という形で、陸軍に対してかなり激しい批判を行った。
以下、浜田代議士と陸軍大臣であった寺内寿一との間の応酬である。
寺内陸相:先ほどから浜田君が種々お述べになった色々のお言葉を承りますと、中に或いは軍人に対しまして、いささか侮辱されるような感じのいたすところのお言葉を承りますが、これらは却って、浜田君のおっしゃるところの国民一致のお言葉にそむくのではないかと存じます。
浜田国松:陸相寺内君は、私に対する答弁の中で、浜田君の演説中、軍部を侮辱する言葉があると言われた。どこが侮辱しておるか。いやしくも国民の代表である私が国家の名誉ある軍隊を侮辱したという喧嘩を吹きかけられては後へはひけませぬ。私のどの言辞が軍を侮辱したか、事実を挙げなさい。
寺内:侮辱するが如く聞こえるところの言辞は、却って浜田君の言われる国民一致の精神を害するから、ご忠告を申したのであります。
浜田:質疑に関する議員の登壇は、三回の制限を受けております。何回でもというわけにはゆきませぬ。これ以上は登壇することができない。速記録を調べて、僕が軍隊を侮辱した言辞があったら割腹して君に謝する。無かったら君、割腹せよ。
これが、かの有名な「腹切り問答」である。
まあ、「切腹問答」や「割腹問答」とも呼ばれているが。
武力を背景に高圧的な答弁をする陸軍大臣に対して、浜田は一歩も引くことなく、「こちらが軍を侮辱した発言の記録があれば、割腹する。ただし、無かったら、君が割腹せよ」と言い放ったのである。
なんとまあ、豪胆な代議士であろうか。
昔の政治家は、腹の座り方が違う。
それにひきかえ、当今の政治屋の子粒ぞろいときたら、、、、
そもそも、今、政治「家」と呼べる代議士先生が、日本にいるのか?
現代の日本人は、ある意味、本物の政治家を見る機会がない。
右を見ても、左を見ても、スケールの小さい政治「屋」のみ。
さて、「腹切り問答」の話に戻る。
浜田の最後のセリフに激怒した寺内は、壇上から浜田を睨みつけた。
そのため、議場は怒号が飛び交う大混乱となる。
そして、これが元で、当時の廣田弘毅内閣は総辞職。
その後の展開は、またの機会にでも。