愛知県西尾市の「比島観音」を知っていますか?

ブログ主には、酒井という素晴らしい後輩がいる。
先日、愛知県西尾市の「殉国七士廟」の情報や画像を送ってくれた。
そして、後日、今度は同市にある「比島観音」についても知らせてくれた。

この観音様も、不勉強にして、知らなかった。
そこで、早速、少し調べることに。

*愛知県西尾市の三ヶ根山山頂にある三ヶ根観音に建立されている。
*大東亜戦争の激戦地の一つであるフィリピン方面での戦没者を祀る慰霊碑である。
*この「比島観音像」の内部には、ルソン島サラクサク峠の戦闘で亡くなられた戦没者の鉄兜が鋳込まれている。
*観音さまの頭の飾りには、比島十一の島々を彫り付けており、「比島観音」と名付けられた。
*比島観音の建立に尽力したのは戦車第二師団であり、ルソン島の戦闘で兵員の八割を失っている。
*比島観音建立後には、他の部隊からも慰霊碑の建立希望が相次ぎ、観音像の周囲には四十五基の碑が建てられている。
*毎年、四月の第一日曜日の十三時より、比島観音例大祭が盛大に行われている。

さて、大東亜戦争の終盤に繰り広げられたフィリピン方面の激闘の少し前から、簡単に振り返ってみたい。

昭和19年6月19~20日、西太平洋のマリアナ諸島沖で日米の海軍機動部隊同士の決戦(=マリアナ沖海戦)が行われた。
必勝を期した日本軍ではあったが、大敗を喫して、帝国海軍の連合艦隊は壊滅的な打撃を受けた。

同年7月7日には、サイパン島の日本軍守備隊が玉砕し、同島は米軍の手に落ちた。
アメリカは、日本本土への爆撃を行うために、サイパンにB29の前線基地建設を進めていく。

7月18日、東条内閣が総辞職。
7月22日、小磯国昭内閣が発足する。

昭和19年10月10日以降、沖縄の南東海上まで迫ったアメリカ第三艦隊は、艦載機の大編隊を発進させて、沖縄、台湾、ルソン島などを攻撃した。
台湾の航空基地や軍需工場には執拗な空襲が行われた。

これに対して、日本軍も各基地から戦闘機や爆撃機などを飛ばして、日米間で激しい航空戦が展開された。
これを「台湾沖航空戦」と呼ぶ。
この航空戦に関しては、重大な問題点があるのだが、今回は割愛する。

10月20日、連合軍がレイテ島攻略に着手する。
20万人を超える陸上部隊が投入された。
それを支援する陸上機が3000機以上、空母艦載機も約1200機という大部隊であった。

海上でも、10月20日から25日にかけて、日本海軍VS米・豪海軍の戦いがフィリピン周辺の海域で行われた。
この比島沖海戦(レイテ海戦)において、日本海軍は大打撃を受けて、連合艦隊はほぼ消滅した。
この海戦の最終局面に、特別攻撃隊による米軍艦艇への体当たり攻撃が初めて行われた。
いわゆる「特攻隊」がここに始まったのである。

以上が、大まかなフィリピン方面における戦闘推移の一部であり、陸上の激戦は終戦まで続いた。
上記の比島沖海戦(レイテ海戦)やルソン島での地上戦を含めたフィリピン方面全体の戦死者は実に52万人に及んだ。

前述したように、比島観音は戦車第二師団が中心となって建立活動を行った。
この部隊は昭和19年7月に第14方面軍に編入され、ルソン島に移動し、昭和20年1月にリンガエン湾に上陸した米軍と戦闘。
比島観音建立の概要で登場した「サラクサク峠」の戦闘は、同年3月に開始された。
この戦闘で亡くなられた戦没者の鉄兜を観音像内に鋳込んでいる。

今回、比島観音のことを知らせてくれた酒井には、本当に感謝している。
酒井の友人も、また実に立派な人物である。

この方は比島観音に参拝しては、清掃活動を行い、環境整備に心を配っている。
観音像周りの掃除はもとより、個々の慰霊碑を拭いたり、磨いたりしているようだ。
比島観音の周囲には、実に、四十五基の慰霊碑が立ち並んでいる。
その一つ一つに丹精を込めて手入れをして、美しく保ってくれる作業と誠意には驚嘆し、敬意を覚えずにはいられない。

こういう日本人もいるのだ。
日本と日本人の素晴らしさを再確認した思いである。

今回の記事はここまでとしたい。
最後になりましたが、フィリピン方面の激闘で戦死された五十二万人にも及ぶ方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。