現在、NHK朝ドラで植物学者、牧野富太郎をモデルにした主人公が登場する『らんまん』が放映されている。
この牧野博士は、南方熊楠ファンの間では非常に印象・評判が悪い人物である。
少なくとも、個人的には牧野博士のことはよくは思っていなかった。
かなり以前、鶴見和子『南方熊楠ー地球志向の比較学』を読んだ際に、引用されていた牧野博士による『南方熊楠翁の事ども』の内容に怒りを覚えた。
今回の志村真幸『未完の天才 南方熊楠』の中にも、牧野博士によるこの文章の一部が使われている。
以下に、引用する。
「南方君は往々新聞などでは世界の植物学会に巨大な足跡を印した大植物学者だと書かれ、また世人の多くもそう信じているようだが、実は同君は大なる文学者でこそあったが、決して大なる植物学者ではなかった」
これに対して、私のような素人は感情的に反応してしまうが、著者はなぜ牧野富太郎がこのように表現したのか、冷静に分析する。
それが、本書の第三章「ロンドンでの「転身」ー 大博物学者への道」である。
同章における、著者の考察を箇条書きにすると
*在米時期(1887年1月~1892年9月)の菌類採集数は、ミシガンで129種、フロリダで388種。
一方、在英時期(1892年9月~1900年8月)の菌類採集数は、わずか22種。
⇒そもそも、イギリスの植物相は貧弱(例えば、英のシダ植物は約100種、日本は約700種)
⇒英には、アマチュア博物学者が多く、貧弱な植物相の中での新種の発見は困難。
⇒植物学から撤退、科学史や東洋学関係へと活動の軸を転換した。
*「ネイチャー」へのデヴュー
⇒1893年10月5日号に、デヴュー作「極東の星座」が掲載される。
⇒その後も、「動物の保護色に関する中国人の先駆的考察」「蜂に関する東洋の俗信」など多くの論考を同誌に寄せる。
⇒活動の中心が、人文科学の論文作成へと移る。
*大英博物館を学問・研究の拠点とする
⇒1893年9月、大英博物館に迎えられる。
⇒大英博物館から様々な仕事を依頼される。
⇒1895年4月、大英博物館の閲覧室への入室許可証を与えられ、以後、同館を学問の拠点とする。
⇒同館で筆写に没頭、「ロンドン抜書」と呼ばれる52冊のノートは、旅行記、民俗学、性科学、比較宗教学などの内容からなる。このノートを基に、東洋と西洋の比較研究を行い、英文でも邦文でも多くの論考を生み出していく。
以上、ポイントを列挙したが、要は生物を実地で観察・採集するフィールドワークから、科学史や東洋学関係の研究を行い、論考を発表する活動に転換したのである。
このように、著者は分析することで、牧野博士の発言「熊楠は植物学者ではなかった」「大なる文学者であった」の背景を説明している。
また、素人なりに考えると、熊楠が生前に刊行した書籍はわずか三点、『南方閑話』『南方随筆』『続南方随筆』のみであり、一方の牧野博士は生前に多数の著作を残している。
熊楠の三点の生前著作は、生物学の専門的な内容ではなく、いわゆる博物学の領域である。
牧野博士の場合、その著作は『牧野日本植物図鑑』に代表されるように、専門的な内容が主である。
このような事実を考慮すると、牧野博士の指摘も的を得ていないこともないのだろうか。
熊楠の業績が「全集」の形で出版されたのは、死後である。
乾元社版『南方熊楠全集』の刊行が、1951年から1952年、平凡社版『南方熊楠全集』が1971年~1975年の刊行。
牧野博士の熊楠に関する文が発表されたのは、熊楠の死後(1941年12月29日没)の翌、1942年二月号の『文藝春秋』であるから、当然、博士は熊楠の業績の大部分を知らなかったのではないか。
雑誌発表分の論考を読んでいた可能性は否定できないが。
以上のことから、想像だが、博士には、「熊楠、何するものぞ」という気持ちがあったのかもしれない。
志村『未完の天才 南方熊楠』は素人の熊楠ファンが反発を覚える発言に関して、その背景を丹念に考察している。
本書の内容に関して、もう少々。
熊楠ファン、そして語学好きにはたまらないのが、第四章「語学の天才と、その学習法」である。
一体、熊楠は何か国語に堪能であったのか?
熊楠ファンの多くが抱える疑問であろう。
本書はその疑問にひとつの答えを与えてくれる。
興味ある方はぜひ、手に取ってみては。
また、本書ではじめて知った情報も多く、勉強になった。
第七章で登場する佐藤彦四郎という人物のことは初耳であった。
この人は群馬県出身で、1915年からロンドンに在住した日本人ビジネスマンであった。
熊楠が投稿していた『N&Q』に、佐藤氏の論考が、1924年から1938年にかけて27本掲載されたという。
ある意味で、熊楠のライバルである。
こちらのような素人が知らないのも当たり前で、正体不明だったこの人物を国立国会図書館の工藤哲朗氏が調査し、最近、その人物像を明らかにしたとのこと。
あまり、書きすぎるとネタバレでよろしくないので、このあたりで。
熊楠ファンにはとても魅力的な一冊である。