徳川「太平の世」の礎は豊臣秀吉の朝鮮出兵にある!

江戸時代は、日本人にとって平和な時代だった。
1600年の関ケ原で勝利を収めた家康が、征夷大将軍に任じられたのが1603年。

その後の大規模な戦闘は、大坂冬・夏の陣(1614~15)と島原の乱(1637)ぐらいであろう。
もちろん、当時の西欧列強からの軍事侵略も受けていない。

戦争は仕掛けなくても、仕掛けられることがある。
その具体例は、鎌倉時代の元寇だ。

16世紀から17世紀の世界は、スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリス等の強国が各々の国益のみを最優先して、対外侵略を繰り返した。
金、銀、その他の鉱物や資源を奪い、原住民を奴隷化し、覇権国が競って海外植民地を獲得した。
まさに、当時の白人は外道である。

なぜ、その悪逆な白人国家が日本だけには支配の手を伸ばせなかったのか?
答は、極めて簡単で、要は、日本の軍事力にビビっていたからだ。

では、なぜ、スペイン始め、当時の列強が「日本=超軍事大国」であると認識し、恐れおののいたのか?
これまた、至極単純な話で、秀吉の朝鮮出兵が連中の脳裏に「日本、恐るべし!迂闊に手を出すと、逆にやられる」との印象を強烈に植え付けたからだ。

秀吉の命で動員された兵力は、15万とも20万とも言われる。
これほどの大兵力に加えて、日本で独自に改良した火縄銃が極めて大量に用いられた。
当時、日本は国内に50万丁を超える火縄銃を所持しており、世界最大の銃保有国であった。

西洋の強国が徳川時代に日本を攻めなかったのは、幕府重臣の大好きなセリフ「上様の御威光」のおかげでもなんでもない。
朝鮮半島において、秀吉麾下の猛将のもと、獅子奮迅の活躍をした名もなき兵士たちの戦いによるものだ。
徳川ファンには悪いが、家康は秀吉のおこぼれを頂戴したにすぎない。

家康と言う人物は、本当に運がいい。
歴史に「if」はないが、もし明智が謀反していなければ、、、、
もし、秀吉があと十年長生きしていれば、、、、

歴史好きはご承知のように、信長は日本統一の前から、世界を見据えていた。
宣教師ルイス・フロイスの『日本史』には以下の記述がある。

⇒「信長は(中略)毛利を平定し、日本六十六カ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分け与える考えであった」

また、1587年にイエズス会士がイエズス会総会長にあてた手紙の中に、生前の信長と秀吉とのやりとりが記録されている。

それは、大雑把にいうと、秀吉が「イエズス会は日本を征服・支配する狙いを持っている」と懸念を示した時に、信長が「あんな遠いところ(=インドのゴアのこと)から、日本を攻略するだけの兵を送ってくることはできないだろう」と答えたというものだ。
つまり、信長も秀吉も、16世紀の世界情勢を十分、認識していたことを意味する。

信長の対世界戦略については、またの機会に詳述したい。
話を、秀吉にもどす。

1591年に、秀吉はポルトガルが支配するインドの副王に、以下のような内容を含む書簡を送った。

*貿易を行って、交誼を深めたい
*ただし、日本でのキリスト教布教は絶対認めない(⇐布教したら許さんと釘を刺している)
*近く、明国に出兵し、これを征服する(⇐これは、一種の脅しであろう)

1593年には、スペイン領フィリピンの総督に対して、恫喝としか解釈できない旨の書簡を届けた。

*私は日本全国と朝鮮半島を平定した(⇐自分の軍事力をアピール)
*配下の武将の多くがマニラ(フィリピン領内)の占領を願っているが、交易したいから自分が止めている(⇐その気になったら、占領するぞとの脅し)
*明を攻略すれば、ルソン(フィリピン領内)は目と鼻の先だ(⇐近いからいつでも攻めることができるという威嚇)

*以上のことを、カステリアの王(=スペイン王)に必ず伝えておくように
スペインと日本が遠いからといって、私の言葉を軽くみないように(⇐要は、なめた真似をしたら、承知しないぞとの恫喝)

最後の「*」の原文は、「このことをカステリアに書き送るべし。カステリアの王、遠方にあるというとも予が言を軽視すべからず」である。

いざとなったら、「ポルトガルでもスペインでもかかって来い!」との気迫を感じさせる、秀吉の言葉だ。
そもそも、秀吉の朝鮮出兵の目的は、スペインとポルトガルによる世界分割支配体制に対抗するためのものであった、と最近の研究は指摘する。

秀吉のもくろみは見事に成功し、スペインもポルトガルも「太閤秀吉の御威光」に震えあがってしまったのである。
であるから、秀吉がバテレンを追放しても、宣教師らを処刑しても、スペインとポルトガルには為すすべがなかったのだ。
もし、別のアジアの小国や連中の植民地でスペイン人やポルトガル人が弾圧されたり、殺害されたら、これらの白人無法者国家は、必ず、報復措置をとったであろう。

日本が西欧から植民地化されなかったのは、秀吉のおかげである。
江戸時代の平穏な日々は、朝鮮出兵で日本の武将が実証した強大な戦闘力に白人列強国が恐れをなしたからこそ、実現・維持できたものであった。

歴史ファンの中には、やたら、家康を持ちあげるものがいる。
その人たちは「やっぱり、家康が一番凄いよな。戦国の世を終わらせて、日本を平和に導いたんだからな」などと語る。

しかし、世界を睨み、当時の西欧大国に敢然と立ち向かった秀吉の胆力と行動力が、徳川「太平の世」をもたらした根源であることこそ、歴史事実だ。