小瀬甫庵(おぜほあん)著『太閤記』を吉田豊氏が現代語訳したものが本書である。
オリジナルの『太閤記』を教育社新書として、(一)~(四)の四巻で構成。
その四巻のうちの(一)の読後記事である。
江戸時代から令和にいたるまで、秀吉に関する読み本、講談、歌舞伎、映画、テレビドラマ、小説のすべては、この小瀬甫庵『太閤記』がタネ本となっている。
すいません!
それほど凄い書を、今回初めて手に取りました。
それも、本当なら、岩波『新日本古典文学体系60』所収の原典を読むべきでしょうが。
まあ、江戸時代の古文?ぐらい、読めないこともないですが、、、チョット自信ないか。
今回、読む際に気にしたのは、主に以下の3点。
①秀吉の出生伝説
➁秀吉の愛称「猿」の記述の有無
③著者小瀬甫庵(1564~1640)の視点・意見
①と➁については、あまりにも有名なエピソードなので、改めて出どころを確認したいという意味。
③秀吉の足跡の記述よりも、著者の意見・批評に注目した。
秀吉の行動については、史実か虚構かに関わらず、その多くがよく知られており、わざわざ当ブログで紹介する意味はなかろうと判断したからだ。
では、
①について
⇒「母が懐の中に太陽が入る夢を見て妊娠して誕生したという。そのことから幼名を日吉丸と名付けたという」との記述あり。まさに、伝説そのまま。
というより、『太閤記』のこの記述が諸作品の元ネタであろう。
確認!
➁について
⇒「信長はその振る舞いをご覧になって、笑いながら、『まるで猿のような顔をしておるが、気がきいて使えそうな男だ、家来にしよう』といわれた」との記述あり。
容貌が猿に似ていると信長が発言したとのこと。
⇒「この言葉が、どうしたことか信長公のお耳に入り、猿め何を言うのか。どうせよというのかときつく問われた」との記述あり。
信長が秀吉を、「猿め」と呼んだとのこと。
以上、「猿」に関しても、容貌と愛称のふたつとも確認!
③については、今回は特に織田信長に対する著者の評価を紹介したい。
ここでは、該当箇所の引用ではなく、ポイントを列挙するかたちとしたい。
*信長公と秀吉とは才知が似ているという人もいるが、信長公の方がはるかに優れている。
*世間は信長公を武勇の達人という一面でしか見ていないが、武勇の功だけで天下統一はできない。
*信長公は秀吉の性格と才能のすみずみまで見抜き、活用・指導した。
*信長公は生まれつき賢明な方だったので、僧にだまされることがなかった。
⇒上の四点目の「僧」は原本現代語訳では、「にせ坊主ども」となっている。
また、原典(岩波『新日本古典文学大系60』)では、「佞僧等」とある。
どうも、著者の小瀬甫庵は仏教や僧に対して辛辣な見方をしていたようだ。
このように、甫庵の信長に対する評価は極めて高い。
ただ、信長に対する批判もないわけではない。
*明智光秀が信長公に恨みを抱いた理由は、家康の上京中に接待役を命じられて十日間ほど準備に追われていたところに、突然の出陣の命令が出たことに不満をもったのである。
この時の信長公は、ご自分の気分ばかりに任せて、重臣への配慮に欠けていたのではないか。
上は、甫庵の意見であり、このあたりは、諸説あるようだ。
素人のブログ主はただ、甫庵の説を紹介しただけ。
さて、秀吉の行動・業績については、その真偽はともかく、素人でも多少の知識はあるので、今回は甫庵の意見・批評に注目した。
実は、一番印象に残っているのは、甫庵の仏教・僧にたいする批判である。
いや、批判というよりも「罵倒」に近い。
この点は、改めて、記事にしたい。
では、今回は、この辺で失礼いたします。