家の宗派のことを少しだけ知ろう ~ 今回は臨済宗です

さて、今回は臨済宗です。
あの一休さんの宗派ですよ。

◎日本における臨済宗の宗祖は栄西(1141~1215年)
禅は支那発祥の思想ですから、「日本における」としています。
比叡山延暦寺で天台教学及び密教を学びます。

◎臨済宗は他の宗派とは異なる点が多い(後から、もう少し情報を出す予定)
臨済宗には総本山・大本山が存在しません。
⇒浄土宗なら知恩院、浄土真宗なら東西の本願寺、曹洞宗なら永平寺と総持持、日蓮宗なら久遠寺となりますが、臨済宗にはありません。

臨済宗では、各派の本山が林立しています。
⇒建仁寺派、東福寺派、建長寺派、円覚寺派、南禅寺派、大徳寺派など十五の派があるとされています。

◎栄西は密教僧でもある
栄西は密教僧としての顔も持ち、天台密教(=台密)葉上流(ようじょうりゅう)の流祖でもあります。
なにか違和感を覚える人もいるかもしれませんが、そもそも天台宗で学べば、密教を修めるのも当然のことです。
ただ、一つの密教流派をたてたことは、他の鎌倉仏教宗祖との大きな違いではありますが。

◎第一回目の入宋(1168年)
栄西は、宋に渡り、中国天台宗の中心である天台山に登りました。
また、舎利信仰で有名な阿育王山(あいくおうざん)にも詣でました。
この当時の栄西は密教に強い関心がありました。

◎二回目の入宋(1187~1191年)
密教とともに禅も学んで、帰国前に臨済宗黄龍(おうりょう)派の虚庵懐敞(こあんえじょう)から「印可」を受けています。
これは、栄西が悟りに達したことを意味します。

◎帰国後に禅を重視する
聖福寺(日本初の禅寺)を建立します。
その後も、建仁寺を建立するなど、禅の振興に努めました。

◎主要著書
『興禅護国論』⇒禅は天台の教えに背くものではなく、仏法復興・興隆に重要であることを説きました。
『喫茶養生記』⇒茶の採取、製造法から、茶の人体に対する効能を説いています。

では、ここから少し細かいことを付け足します。

*栄西の禅は「兼修禅」
栄西の教えは、「天台教学+密教+禅」であり、最初からこの三つを合わせて学ぶというものです。
栄西が建立した建仁寺では、当初から、真言、天台、禅の兼修が定められており、この伝統が後の臨済宗へも受け継がれます。
前述したように、栄西は台密葉上流の祖ですから、十分うなづけますよね。

*戒律の重視
栄西は、戒律を守りながら、禅を実践することを重視しました。

*禅宗の興隆は武家と関係あり
南都六宗や天台宗、真言宗は朝廷や公家との結びつきが強かったですね。
だから、源氏や北条氏などの武家は新興宗派である禅を庇護し、密接な関係を築いていきます。

栄西の建仁寺建立も、鎌倉二代将軍・源頼家が援助しています。
また、寿福寺の場合は北条政子が協力しています。

*禅と武家の強力な結びつきから多数の大寺院が建立⇒京都五山、鎌倉五山
京都五山⇒天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺
鎌倉五山⇒建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺

これらの大寺院は幕府の庇護のもとに、勢力を拡大し、また禅文化の中心を担いました。

*有名な一休さん(一休宗純 1394~1481年)は臨済僧
とにかく魅力的な禅僧です。
ここでは、一休さんの言葉をいくつか紹介するに留めます。

「釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはするかな」
「女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む」
「世の中は 起きて箱して 寝て食って 後は死ぬるを待つばかりなり」
「南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ」
「分け登る 麓の道は多けれど 同じ高嶺の月こそ見れ」

では、今回はここまで。