祖父は長男として生まれ、弟が三人いた。
三男として生まれた弟が大東亜戦争で戦死している。
ブログ主が生まれる数十年前のことである。
写真でしか見たことのないこの大叔父の軍服姿の遺影が実家の座敷にある。
今回、大叔父の「死没者原簿」の写しを県庁から送付してもらった。
内容を一部紹介したい。
所属部隊の欄には「野砲兵第24連」とある。
調べてみると、野砲兵第24連隊とは第12師団に属し、「剣第8722部隊」と呼称された。
昭和11年4月からのこの部隊の動きがネット上である程度確認できたので以下に書き留める。
昭和11年4月 満州派遣のため動員下命
⇒満州駐箚のため長崎港出発
(「駐箚」という表現を初めて見た!「ちゅうさつ」と読む)
⇒大連港上陸、関東州界通過
(「関東州」とは、日露戦争の講和条約ポーツマス条約に基づき、ロシアから日本が引き継いだ租借地である)
⇒哈爾浜着、同地駐屯
(「哈爾浜」とは「ハルビン」のこと、現在の黒龍江省の州都である)
昭和11年7月 移駐のため哈爾浜(ハルビン)出発
⇒寧安県掖河鎮着、同地駐屯
(「寧安県」も黒龍江省にある)
*入手した資料では、その後昭和19年12月まで野砲兵第24連隊は移動をしていない。
実際に寧安県に留まったていたのか、その資料に不備があるのかは不明である。
ただ、野砲兵第24連隊の上級単位である陸軍第12師団の動静を調べると満州の各地を転々としている。
確認できたものの一部を以下に記す。
昭和11年4月 満州駐箚、哈爾浜に駐屯、密山に移駐(「密山」も黒龍江省にある)
昭和12年 東寧に移駐(「東寧」も黒龍江省内にある)
昭和13年1月 新設の第3軍へ編入、老黒山に移駐(「老黒山」は黒龍江省にある火山)、城子溝に移駐(「城子溝」は牡丹江省東寧県にある)
昭和14年 大肚子川に移駐(「大肚子川」は牡丹江省東寧県にある川)、「師団・軽装甲車訓練所」設置。師団内での兵の車両運転教育開始、師団の満州永住の内示が出る
これ以降も、第12師団には様々な動きがあるが割愛する。
では、「野砲」と「野砲兵連隊」について調べたことを少々。
野砲とは野戦部隊が用いる主火砲である。
定義は時代によって異なるが、口径100ミリクラスかそれ以下の軽カノン砲を指す。
日本陸軍が大東亜戦争中に用いた野砲には以下のものがある。
*九〇式野砲は昭和7年制式制定、口径75ミリ、最大射程14,000メートル
*九五式野砲は昭和12年制式制定、口径75ミリ、最大射程10,700メートル
*改造三八野砲、口径75ミリ、最大射程11,600メートル
野砲兵連隊は一般に、野砲2個大隊と10センチ榴弾砲1個大隊からなる。
*75ミリ野砲を24門、10センチ榴弾砲を12門装備していた。
それにしても、大叔父の「死没者原簿」からいろいろと調べていくと、地名は非常にやっかいだし、当時の陸軍用語もわかりにくい。
駐屯地のことや野砲の運用なども掘り下げていく必要がありそうだが、今回はここまでとする。
祖父も大叔父の軍隊生活についてはそれほど知らなかったようだ。
なにせ、大叔父は若くして亡くなっている(享年24)。
ブログ主にとって歴史上の用語である「満州」の地に、大叔父がかつて日本陸軍の砲兵として足跡を残していたことが確認できただけでも一種の感慨がある。
大叔父のことは、また、別のかたちで記事にしたい。