やる気満々の磯貝から早速、第二弾の催促が来た。
今回も奥州藤原氏について縦横無尽に語ってもらおう。
磯貝:え~と、清衡と中尊寺のアレコレからだな。まず、初代清衡が中尊寺を建立したのは、おそらく三尊仏の「真ん中=中尊」を自分が建てるから、息子たちに脇立ちの寺を造ってもらって、平泉に三尊仏に見立てた「三尊の寺院」を完成させようという着想だったと思うんだよ。
ブログ主:なるほど、その見方は興味深いな。確かに、二代の基衡が毛越寺が造営して、三代目の秀衡が無量光院を建立したからな。それで、三尊の寺院が完成したというわけだな。
磯:うん。奥州藤原氏が築き上げた平泉は極楽浄土を現世に表現したものだよな。都の連中は東北の人間を見下していたんだろうけど、実際には中尊寺金色堂ほどの金襴豪華な建築物は京都には存在しないよ。
ブ:じゃあ、文化面に焦点を当てる前に、政治的な面からの解説をお願いできるかな。
磯:一言で表現すると、藤原三代の約100年間の治世は「半独立政権」だよ。京都の公家も源平の武士団も手出しが出来なかったんだから。まあ、四代目の泰衡の時代に滅んでしまったんだけど。
ブ:歴史に「if」は無いけど、もし秀衡があと十年長生きしていたら、日本の歴史が変わったかも、と言われるほどの人物だよな。
磯:だな。結局、奥州藤原氏は「侵さず、侵されず」の政策、例えていえば、「奥州モンロー主義」のもとに政権運営したと考えていいんじゃないか。
ブ:モンロー?ってマリリンか?
磯:バカヤロ~。米大統領のモンローが提唱した、アメリカとヨーロッパの相互不干渉の例のやつだよ。
ブ:ちょっと、ボケてみただけだよ。ハハハ。
磯:もう、真面目にやれよ。しかし、歴史の流れは不思議と言うか、奥州モンロー主義を守っていた秀衡と源義経がめぐり合ってしまったのが、運命的だったんだ。義経にとって秀衡は育ての親だからな。源平の合戦に送り出すし、また頼朝に追われた義経を快くかくまったのも秀衡さんだ。器のでかい人だよ。
ブ:秀衡の偉大さと比べると、やっぱり四代目の泰衡は見劣りするのかな。
磯:秀衡が亡くなる前に泰衡に、「お前は奥州全体の内事を司れ。軍事は義経を総大将として頼朝に対抗せよ」と遺言したらしいな。ただ、泰衡やその側近にしてみたら、複雑な思いがあっただろし、平泉の人々も「主戦論」と「平和論」に分かれただろう。また、頼朝の諜報機関も暗躍しただろうし、秀衡亡き後の泰衡の立場も難しいかじ取りを要求されるものだったんじゃないか。
ブ:う~ん、なんか、活き活きとしてるな、磯貝。今日も饒舌だねえ。
磯:また、チャチャ入れやがって。まあ、俺から見れば頼朝は奥州藤原氏を滅ぼした憎い敵だけど、あの男も祖父、父、叔父それから兄も殺された中で自分は助かって、、、という悲惨な生い立ちだからね。そこから上り詰めた一種の怪物だからな。そりゃあ、人間離れしているよ。
ブ:ちょっと、話は変わるけど、頼朝が弟の義経を許さなかった理由はなんだっけ?
磯:まあ、頼朝に無断で朝廷から官職を授かったこと、壇ノ浦の戦いで安徳天皇を救えなかったこと、あと三種の神器の「宝剣」が水没したことかな。
ブ:無断の任官の件は、朝廷側、つまり後白河法皇に踊らされたと見てもいいんじゃないか。
磯:その面は大きいな。朝廷の権謀術数というのは凄いものがあるから。軍事は天才だけど、政治的感覚はにぶい義経を手玉にとって頼朝と対立させることぐらい後白河にとっては朝飯前だったろうな。
ブ:磯貝~、今日もあなたの気迫に圧倒されて喉がカラカラ。一杯やりたくなったよ。
磯:またか、もうちょっと我慢しろ、最後まとめるから。
ブ:へ~い。
磯:返事は「はい」だろ。じゃ、政治的観点からのまとめな。今まで、中世とか封建制とかいわれてるものは、鎌倉幕府に始まる、とされてきたよな。確かに、完成形としては鎌倉幕府が最初かもしれないけど、その前のモデルケースが平泉だったんじゃないかな。東北全体を100年間治めた地方政権というか、半独立政権だろ。京都や奈良以外の地域に出現した初めての組織だった政権なんだよ。しかも、武力だけではなく、文化的にも極めて素晴らしい。奥州藤原氏は東北の富を東北の人たちに還元し、現世に極楽浄土を造り上がて、善政を施したんだよ。
ブ:平泉の凄いところは朝廷や源平などに依存していない点だよな。
磯:その通り。全部、自分たちの資本と能力で平泉を創り上げたんだよ。政治的にも文化的にも地方が独立して、都の世話にならずに自立できることを日本史上で初めて示したのが奥州藤原氏であり平泉なんだよ。
ブ:大変、ためになりました。じゃ、次回は文化面を語ってもらいましょう。
磯:おう、近くやろうぜ。
追記
今回も磯貝節が炸裂した。
次回は、平泉の文化面について対談したい。
乞うご期待。