先日も磯貝と「天台宗」をテーマに対談をしたが、今回はその第二弾。
毎度のことながら、今日の磯貝も気合十分の様子。
では、始まり、始まり、、、
磯貝:じゃあ、この間の続きから、やるか。円仁と円珍の件だったな。
ブログ主:そう、教義上の論争から円仁と円珍の末流が対立して、その結果、山門派(延暦寺)と寺門派(園城寺=三井寺)に分かれたというところな。
磯:うん、まあ、どんな組織でもそうだが、カリスマ創業者なき後はいろいろ派閥ができるのは世の常だよな。天台はあらゆる教えを包含するから、その中で優劣をつけたりバランスを取ったりするわけだ。まず、三代目座主の慈覚大師円仁は、「理同事別」の立場、五代目座主の智証大師円珍は、「理同事勝」の見解に立っているわけだ。
ブ:なんだ、そりゃ?説明してくれ。
磯:円仁の見解、「理同事別」とは、理論的には円教(=法華経)と密教は一致するけど、実践の上では違いがあるというもの。円珍の方の「理同事勝」は、密教の方が天台教学よりも、実践の上では優れていると断じたわけだ。
ブ:なるほど。円仁は差異を認めたうえで、法華経と密教に優劣はつけなかったのに対して、円珍の方は、ハッキリと密教の方が法華経よりも実践面で上だと判定したわけだ。そりゃ、もめるよ。だって、そもそも天台大師智顗は法華経こそが円教(=円満完全な教え)と判定して、最高位に位置付けたわけだし、伝教大師最澄も、俺の勘違いでなきゃ、「円密一致」の立場だろ。素人考えかもしれないけど、円珍の言うことは、智顗や最澄の教えと違うじゃないか。
磯:う~ん、円仁も密教の方がやや上だと言いたかったのかもしれないけど、、、円珍は完全に密教重視だな。
ブ:なんか、いろいろ難しいな。俺的には、円仁は許せるけど、円珍はなんか嫌だな。
磯:うん、俺もそう思うんだけど、、、最澄の時代に密教の面で真言宗に後れをとっていたから、その反動というか、真言と対抗して追い越すためか、、まあ、当事者じゃないから、なんともな、、、
ブ:お、その歯切れの悪さは円珍の方、つまり寺門派(三井寺=園城寺)になんか遠慮してるな。あ、そっか、中尊寺がらみか、、、確か、中尊寺に伝わる密教は智証大師流だったな。それで、円珍には強く出ないんだな。
磯:俺が中尊寺ファンだからといって、あんまりいじるなよ。まあ、いろいろあるよ。で、そういうわけで、993年に延暦寺と園城寺とに分裂したわけだ。しかし、その後も、園城寺側からも8人の天台座主が出てるからな。
ブ:あ、ちょっと脇道にそれるけど、ミイデラゴミムシって虫がいるよな。あの虫と三井寺とはなんか関係があるのか?
磯:ああ、あのヘッピリムシな。実は大いに関係アリだよ。三井寺の円満院門跡にな、『放屁合戦』という戯画があってな、それが名前の由来だよ。
ブ:屁だけに、「へえ~」だな。ハハハ。じゃ、話を戻すけど、中尊寺も実質的な開基は藤原清衡だけど、寺伝によると、円仁が開山したと言われてるから、磯貝としては両方尊重しないとな。
磯:もういいんだよ、中尊寺関係の話題は。え~と、円仁については、やっぱり、『入唐求法巡礼行記』には触れないとな。なにせ、玄奘三蔵の『大唐西域記』、マルコ・ポーロの『東方見聞録』とともに世界三大旅行記のひとつに数えられている。この旅行記は、当時の支那の社会や風習についての記述も多くて、この時代を知るうえで貴重な資料にもなってるよ。
ブ:確か、昔の駐日アメリカ大使のライシャワーさんが研究・英訳して世界に紹介したんだったな。今東光大僧正がライシャワーさんと対談した時に、この旅行記を話題にして大いに盛り上がったらしい。ん、『東方見聞録』と言えば、黄金の国ジパングだな、黄金の国と言えば、中尊寺金色堂だよなって、シツコイな、俺も。
磯:いいかげん、中尊寺から離れろ。
ブ:了解、、、三大旅行記のもうひとりの玄奘三蔵と言えば、三蔵法師。三蔵法師と言えば、夏目雅子だな。日本を代表する美女だったけど、若くして、、、ほんと、美人薄命の典型だよ。
磯:おい!話がずれてるぞ。真面目にやれよ。
ブ:すまん、すまん、つい。じゃ、円仁や円珍がらみでなにかあれば、もう少し解説してくれよ。
磯:おう、分裂前後の二派について少し話そうか。まず、唐から帰国した円珍が園城寺(三井寺)を再興したのが、二派分裂の根源なんだよ。円珍が園城寺を天台別院として整備した。すると、要は、延暦寺とは別に新たな拠点ができたことになる。これが大きな意味を持っているんだよ。
ブ:で、その辺から揉め始めたのか?
磯:いや、そもそも円仁と円珍自身は対立していない。ただ、円仁には円仁の弟子がいたし、円珍には円珍の弟子がいたということで、派閥が二つできたわけだ。それに、延暦寺と園城寺と、拠点も二つある。円珍が第五代天台座主に就くと、やっぱり、自分の弟子を天台宗の要職につけるようになるし、、、
ブ:いつの時代のどんな組織でも起こることだな、言ってみれば。
磯:そういうことだな。次第に対立が激しくなって、二派が分裂したのが、さっきも言ったけど、993年とされてるね。
ブ:分裂前から公家や有力者というか周囲をも巻き込んでるだろうな。
磯:もちろん、開祖最澄のころから朝廷との結びつきが強い天台宗だからな。藤原氏や他の有力者も絡んでくるよ。
ブ:源平の時代になると、延暦寺側が平氏、園城寺側が源氏と組んでるよな、確か。というか、もともと園城寺は源氏の氏寺だからな。
磯:その通り。さらに時代が下がって、南北朝時代になると、南朝には延暦寺がつき、三井寺(園城寺)は北朝方を応援したという次第。だから、南朝側の新田の軍勢と延暦寺の僧兵が大挙して三井寺を襲撃したから、炎上し焦土と化したよな。
ブ:お、新田といえば、徳川家康だよ! 源氏でもないのに、「新田流れ」と詐称しやがって、、、
磯:おまえも、本当に執念深いな~、いいかげんその件は忘れろよ。
ブ:まあまあ。で、三井寺の話に戻ると、室町幕府を開いた足利尊氏が再興したな。一方、戦国時代に延暦寺は織田信長から焼き討ちされて、、、ちょっと生々しい話が続いたな。
磯:そうだな。しかし、天台に関しては話題が尽きないな。次から、次から、、、
ブ:いや、ホント、きりがないよ。どうする、磯貝?って、『どうする家康』じゃないっての!
磯:馬鹿野郎!一人でボケツッコミやってるんじゃないよ!いいかげんにしろ!
ブ:ハハハ、すまん。じゃ、今回はこんなもんにしとくか。
磯:そうするか、でも、なんだな、また中尊寺ネタでやりたくなったよ、そっちが何回も中尊寺の名前を出すから。
ブ:俺の方は、中尊寺でも天台宗メインでもどっちでもいいよ。
磯:じゃ、ちょっと考えるよ。
ということで、今回はここまでとします。
次回の対談が「中尊寺」がらみか、「天台宗 その3」になるかは磯貝次第です。