『毒舌日本史』に続いて、今東光シリーズ第二弾、『毒舌仏教入門』。
今回は、大僧正が仏教を面白く、わかりやすく説いていきます。
本書の核は、述べ五日間の説法。
その説法というか講演から文字を起こした本文に、瀬戸内寂聴さんが序文を寄せ、集英社の島地氏が随所で東光和尚にまつわる面白エピソードを紹介。
ベースとなる説法は戸津説法というもの。
元々は伝教大師最澄が民衆に法華経の教えを説くために始めた説法です。
現在は滋賀県大津市の東南寺で行われています。
東光和尚は、小難しい説法をして聴衆を退屈させたり、ウトウトさせたりはしません。
自分が中学校を放校された話、東大にもぐりこんで若き日の川端康成と交流した日々、生涯の師、谷崎潤一郎との出会いなど、自らの人生を振り返りながら聴聞者に語りかける和尚。
東光和尚の優しい語り口を実感してもらうために、説法の一部をそのまま引用します。
「なにもお経を知っているとか、暗記しているとかいうのは、関係ありません。あなた方が生きていること自体が仏教的であり、法華経的であり、天台的であれば、それでええのです。どうぞそうおぼし召して、みなさん、お子さん、お孫さんをお育てになって、ご家庭で仏教的な教育をしていただきたいと思うのでございます」
「わたしたちは仏教徒であるかぎり、合掌することを知ってるかぎり、愛情でつながっていく、慈悲でつながっていく、というような生き方をしたいではございませんか」
もちろん、時折、天台教学の教えを紹介する際には、最小限の専門用語を用いています。
それでも、「法華実相論」を説く際には、台風を例に出して、善悪は一つ、苦楽は一つと聴衆にわかりやすく説いていきます。
台風は大きな被害をもたらすけれども、草や木は倒されまいと根にグッと力を入れて、だんだん強くなっていくし、シイタケが日本各地で採れるのは、台風の風に乗って胞子が南から運ばれたからだと、身近な具体例を出しながら説明。
個人的に、一番興味深かったのは、天台教学と源氏物語の関係についての話。
ポイントを箇条書きにすると
・紫式部は藤原為時の娘であり、藤原氏はすべて天台宗徒である
・当然、子供のころから、天台教学の言葉や行事が身近にある
・源氏物語の随所に天台の言葉、教えが入っている
・天台を知らなければ、源氏物語を本当に理解することはできない
・谷崎潤一郎が源氏物語の訳づくりで、一番苦労したのが天台の言葉であった
・谷崎は今東光を通じて、山口光円や福吉円鈔などの碩学からも助言を受けて、訳を進めていった
さて、戸津説法の日程のなかで、東光和尚は弟子の瀬戸内寂聴に、結願の日(最終日)に一番大切なことを言う、と何度も伝えたそうです。
自信はありませんが、ここではないかな、と思う部分をそのまま引用します。
「わたしは、顕教の中に大般涅槃、法華涅槃を入れて勉強したらいいのではないかと思う。密は密として、むしろ独立させてしまえばいい。五大院安然さんの真似をするわけではないが、蔵・通・別・円・密ではなく、蔵・通・別・円・大般涅槃経ということにしたら、もう一度天台がリバイバル、復活を果たせるのではないか」
浅学菲才の身には、歯が立ちません。
天台大師が蔵・通・別・円の四教を確立し、平安時代に五大院安然(ごだいいんあんねん)が四教に密教を融和させ、蔵・通・別・円・密という学説を立てた。
東光和尚は、密を独立させて、代わりに大般涅槃経を加え、蔵・通・別・円・大般涅槃経という学説を提案しているようです。
最終日のこの部分だけが、専門的で難解ですが、その他の部分は四日目までと変わらず天台の教えを面白おかしく、わかりやすく説明。
戸津説法には、講師(今春聴大僧正)の説法を聞くために比叡山のお偉方がずらりと並びます。
東光和尚も、一般聴衆には難しいけれども、最後にお山の高僧に向けて自分の考えを披露し、一考を促す必要があったのでしょう。
今東光大僧正の五日間の説法を文字で通読して、つくづく思うことは、本当に学識豊かな人物は、誰にでもわかる平易な言い回しでものごとを説明できるということ。
学者、作家、評論家の中には、やたら難解な言い回しや耳慣れないカタカナを使って文章を綴ったり、講演する人たちがいますね。
おそらく、自分は学があるのだ、と威張りたいのでしょう。
そんな連中が束になっても、今東光大和尚の学識・教養には遠く及びません。
また、機会を見て、和尚の著作を紹介させていただきます。
最後に、東光和尚を敬愛した集英社の島地勝彦氏の言葉を引用して、『毒舌仏教入門』の読書感想を終えます。
「ちなみに、凡夫が銅でできているとしたら、二流の人物は銅の上に金メッキをして金ピカを装っているものだ。しかし、本物の大人物は金無垢に銅メッキをして生きている。だから、こちらが、爪をカリカリ立てると、銅の下から金無垢がちらりちらりと見えてくる。今東光という人は、まさにそういう人物であった」