はまっていた『ふてほど』が今年三月末に終了して、ちょっと寂しい気分がしていたら、川口から『プロジェクトX』が始まるとの連絡が入った。
『プロジェクトX』と言えば、中島みゆきの『地上の星』だろ、ってことで早速、youtubeで聴いてみた。
なんとも表現できない、高揚感というべきか、胸が騒ぐ感じというか、独特のエネルギーを聴く者に与える曲。
別に、中島の熱烈なファンではない。
もちろん、アンチでは決してない。
実のところ、中島みゆきに関しては、ちょっとした警戒感を抱いて、あまり近づかない(=ファンにならない)ようにしていた。
その理由は中島みゆきの背後にあるもの、、、、、すなわち天理教である。
1980年代の末であったか、某評論家の本で、中島が天理教の信者であることを知った。
(天理教の『泥海古記』と中島みゆきの曲『泥海の中から』の「泥海」の一致は偶然ではないだろう)
それ以前から、なにか、中島の歌は耳底に残るというか、心が揺さぶられるというか、とにかく、他の歌い手のヒット曲にはない異質なものを感じていたような気がする。
その漠然とした違和感が、とある作家の「中島みゆき論」を目にしたことで、氷解した。
中島みゆきの歌の持つ不思議な力の本質は、宗教に備わった魔力に他ならないのである。
(え、いきなり?論理の飛躍もすぎるのでは?、との声も聞こえてきそうだが。そもそも、宗教とは論理の枠外にあるもの。というか、そう感じさせる力が中島みゆきの歌にはある。でなければ、中島ファンの信者ぶりは説明がつかない。)
言われてみると、中島みゆきが天理教に関係している事実は多くのことを説明してくれる。
熱烈な中島ファンが「信者」と呼ばれていること。
その信者たちが中島の曲の歌詞を往々にして深読みするという行為。
まるで、ある宗教を信じるものが経典・聖典から真理を読み取ろうとするかのように、、、
つまり、熱心なファンにとって中島は教祖といえる。
そして、中島の楽曲は「中島みゆき教」の聖典なのだ。
中山みき(=天理教開祖)の教えの信者が中島みゆきであり、中島みゆき自身も多くの信者(=ファン)を持つという構図。
ブログ主は、宗教(特に、仏教)には大いに関心がある。
しかしながら、特定の宗教には決して入れ込まない ~ これが個人的な信条である。
勝手に師と仰いでいる今東光大僧正の教え、「感情で信仰してはならない。理性を失わずに理信という境地でなければならない」が常に念頭にあるからである。
従って、天理教と中島のつながりを知って以降、中島みゆきを警戒しつつ、遠巻きに見るというか、努めてファンにならないように用心してきた。
それにしても、久しぶりに聴いた『地上の星』のなんと、雄々しく素晴らしいことか!
身体の奥から、言いようのない活力がこみ上げてくる。
まさに、魂が揺さぶられるのである。
中島の信者たちは、『地上の星』をどのように深読みするのだろうか?
中島教の数ある聖典(=中島の楽曲)の中で、この『地上の星』をどのように位置づけるのか?
それぞれ異なる信者によって、それぞれ異なる解釈があるのだろう。
やはり、中島みゆきは危険である。(⇐誉め言葉!)
中島への関心が天理教への興味につながり、万が一、入信などに、、、、
まあ、私の場合はそれはないな。
今東光和尚の弟子を自認しているがゆえに。
ただ、中島を通じて天理教を知り、その教えを信仰するに至ったファンもいるのだろうか?
いるかもしれない。
この点に関してはなんとも言えないし、また憶測だけで無責任なことを書くつもりもない。
先日、『地上の星』を聴いた後に、『空と君のあいだに』『時代』『ファイト』『糸』『狼になりたい』など、つぎつぎに視聴してしまった。
油断すると、本当にアブナイ、アブナイ、、、、、あっという間に時間が過ぎ去ってゆく。
ところで、中島みゆきは今も天理教を信仰しているのだろうか。
脱退だか脱会だかしたとか、しないとか噂が流れているようだ。
この点も、部外者ゆえ、迂闊なことは言えない。
ひとつ確かなことは、先に述べたように、中島みゆき自身が多くの信者を持つ教祖であること。
そして、おそらくは、中島と天理教の関係いかんにかかわらず、これからも熱狂的なあまたのファンが中島を教祖として崇め奉るであろう。
追記
中島の代表曲の一つである『糸』は、天理教のトップのために創った楽曲だそうだ。
残念(?)ながら、天理教に関しては、ほとんど知らない。
江戸時代に、中山みきという女性が一種の神がかりを経て、教祖になったのが始まりらしい。
また、機会があれば、少し調べてみたいとは思ってはいるが、、、