先日の当ブログで、つい指が滑って、「芭蕉は案外ものを知らない」などと打ってしまいました。
早速、常連の某氏から、「あれは、ちょっとまずいんじゃない~」と指摘を受けました。
これっぽっちも悪気はなかったのですが、やはり「俳聖」と呼ばれるほどの巨匠を揶揄する発言ととられても仕方がありません。
芭蕉ファンの皆様、どうも、すみませんでした!
ということで、今回は芭蕉を讃えますよ。
ハハハ、この変わり身の早さ。
◎芭蕉は教養人!
まず、『おくのほそ道』の冒頭から
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」を見ていきますと、芭蕉の教養がにじみ出ているのが窺えます。
ここは、かの李白の「夫れ、天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり」に倣ったものでしょう。
唐の詩人である李白の書物を、芭蕉が読んでいた証拠です。
誰ですか、「芭蕉はものを知らない」とか言った失礼な奴は?
すみません、私です。
◎芭蕉は李白を尊敬?それとも、対抗意識を燃やしていた?
芭蕉は、かなり李白を意識していたようです。
実は、「芭蕉」はもともとは、住んでいた草庵の名前でした。
本来の俳人としての俳号は、「桃青 とうせい」といいました。
この桃青は、芭蕉が李白を強烈に意識していたというか、尊敬(orライバル視?)していた証拠とされます。
李白の「李」は「スモモ」のこと。
ですから、スモモを「桃」にして、白を「青」に置き替えたのが、桃青というわけですね。
「青」を入れたのも、李白由来でしょうか?
李白の号は、「青蓮居士」ですから。
(ここはブログ主の推測ですから、誤認であれば、すぐに訂正します)
おそらくは、芭蕉は桃が好きだったんでしょうね。
弟子には、「桃夭 とうよう」がいるし、甥っ子は「桃印 とういん」だし、、、
ついでに、「芭蕉」の由来は、弟子が芭蕉の株を贈ったので、草庵が「芭蕉庵」と呼ばれるようになり、本人も「芭蕉」と号したわけです。
また、「芭蕉庵桃青」も使われました。
◎「おくのほそ道」の見事な構成に注目!
以下の二句をご覧ください。
「行く春や鳥啼き魚の目は涙」(旅立ち)
「蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」(大垣)
旅立ちの章の「行く春や」と、大垣の章(=最終章)の「行く秋ぞ」がきれいに対応してますね。
芭蕉が練り上げた構成の巧みさです。
いや~、芭蕉って凄いですね~。
次に、以下の「平泉の章」からの引用に目を通してください。
「かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散り失せて、珠の扉風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、すでに頽廃空虚の叢となるべきを、四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぎ、しばらく千歳の記念とはなれり。
五月雨の降り残してや光堂」
この一節には、中尊寺と奥州藤原氏にまつわる事実を中心に「数字」が随所に使用されています。
一見して、「二堂」「三将」「三代」「三尊」「七宝」が目につくはず。
それに重ねて、「四面」「千歳」を用いることで、文章全体に整然かつ荘厳な響きを与えています。
加えて、仕上げに「五月雨」でこの一節を締めて、奥州藤原氏の悲劇を厳かに弔っているのです。
研究者によると、この句の初案は、「五月雨や年々降りて五百たび」でした。
平泉の滅亡が1189年、芭蕉が中尊寺を訪れたのが1689年、まさに「五百たび」=「五百年」です。
五百年の歳月の流れ、厳しい風雨を「五月雨」にすべて込めて、象徴させているのでしょう。
◎旅に同行した弟子の曾良(そら)も只者ではなさそう?!
師の芭蕉に同行した弟子の曾良も謎多き人物のようです。
芭蕉に師事する前は、伊勢長島藩に仕えていました。
この「おくのほそ道」の旅では、下調べや資料集めや旅費の会計などの仕事をこなしたといいます。
また、この曾良は神道に造詣が深く、専門の神官に講義するほどのレベルで、さらには地理学にも精通しており、かなりの知識人と言えそうですね。
詳細は不明ですが、公用での旅が多く、単独で各地を巡っていたようです。
もしかしたら、芭蕉ではなくて、この曾良が幕府の隠密だったのかもしれません。
芭蕉没後に、幕府派遣の巡見使(=地方視察官)として九州に入り、最後は壱岐の島で生涯を閉じています。
◎おわりに
本当に、誰ですか、こんなに凄い芭蕉を「ものを知らない」とか的外れな評をしたのは?
失礼千万です!(すみません、私です、ハハハ)
まあ、そういうことで、松尾芭蕉についての情報をほんの少しだけ紹介させていただきました。
芭蕉ファンの皆さま、もう二度とあのような失礼な発言はしませんので、どうかご容赦のほどよろしくお願いいたします。