レジー『ファスト教養』を読んでみました。
感想を簡単にまとめると
・「ファスト教養」という概念提示が最大の魅力
・引用が多い⇒ファスト教養の具体例が多い
・ファスト教養で「オウム」に対抗できるか?
・著者自身の「教養」の定義は何?
・結局、定義・嗜好・価値観の問題では?
*ファスト教養というネーミングが秀逸
人生ではなく財布を豊かにするための知識や技術を著者は「ファスト教養」と名付けた。
そして、この教養?が流布している現況を批判的にとらえたい、という立場のようです。
なによりも、ファスト教養という名前がいい。
覚えやすいし、ファストフードの語感を連想させ摂りやすい、手早い、等のイメージを受けます。
全体の構成もわかりやすいです。
ファスト教養とは何か
⇒それが受容される背景
⇒支持に至った経緯
⇒ビジネスパーソンの生の声
⇒文化に影響を与えるファスト教養
⇒どう向き合うか、著者の提言
大体、上記のような構成で、いったん著者のいうファスト教養という用語を受け入れれば、最後まで自然に流れていきます。
ファスト教養という巧みな用語・概念を提示したことが最大のポイントだと思います。
*引用が多い⇒具体例が多く、わかりやすい
他の書からの引用が多く、「 」で囲まれた語句や表現も目立ちます。
特に、ファスト教養書からの引用が多いので読者はそこを拾い読みすれば、ファスト教養の中身がおおよそ理解できます。
ファスト教養本の書名や出版社、著者等を列挙して紹介しているページもあるので、興味ある読者にはありがたいのではないでしょうか。
*ファスト教養で「オウム」に対抗はできない
本書の中で、ファスト教養でオウムに対抗できるか、という問いかけがあります。
これは、残念ながら無理ではなかろうかと思います。
90年代、多くの識者といわれる人々が宗教者(?)麻原を高く評価しました。
その中には、著名な評論家や宗教学者も含まれます。
ネット検索すれば、実名がいくらでも出てきますが、いわゆる専門知を持つ人がコロッとやられたのです。
ファスト教養ではとても対抗できないし、教養があると自負する人たちも騙されるかもしれません。
とすると、「教養」とは「オウム的なものの虚構性や欺瞞性を見抜くことのできる見識」と定義づけてもよいのかもしれません。
*著者自身の「教養」の定義はどうなっているのか?
ファスト教養が流布している現況を批判的に捉えるためには、その対比として本物の「教養」とは何かを、著者自らが明示する必要はないのでしょうか。
こちらの見落としなら訂正しますが、本文中に著者自身による「教養」の定義が見当たりません。
池上彰、佐藤優、浅島誠をはじめ多くの人による定義は引用されていますが、著者自身の定義はないようです。
様々な場面で著者以外の人物による「教養」の定義が紹介されていて、それを軸に筆者の論が展開されます。
しかし、その定義が統一されていないために論証に一貫性がない印象を受けます。
第六章に、「教養あるビジネスパーソン」の定義はあります。
しかし、教養そのものではないようです。
本書の28ページで、教養を定義することは難しくこの難しさがファスト教養的な空間の広がりにつながっていると思われる、という意味の記述があります。
難しいのは十分理解できますが、自分の言葉で教養の定義を行わなければ、その対極のファスト教養に対する批判の説得力が弱くなりませんか?
ちなみに、ある評論家は著書の中で、教養とは「ある社会の中でその価値体系によって公認とされている知識の集合体・総合体である」と彼自身の言葉で定義づけています。
*定義・嗜好・価値観の問題
繰り返しになりますが、結局、教養をどう定義するかによって、その反対のファスト教養の姿も明確になるのではないでしょうか。
本書の「おわりに」で、ファスト教養の本質は「ビジネスやお金儲けに関係しない物事を無駄なものと位置付ける姿勢」とし、さらにファスト教養は「そんな無駄なものを「無駄でないもの=ビジネスやお金に関係すること」に変えようとするムーブメントであるともいえる」と述べています。
ここから、では「教養」とは何か?という定義に入っていくのかな、と思いましたがそうではありませんでした。
ここで、仮に教養とは基本的に、「人文知」であると定義づけておけば、著者のいう「ファスト教養」など、そもそも「教養」ではないという主張が成立すると思います。
著者のいうファスト教養からすれば、自己啓発や金融に関する知識等は当然、「教養」に含まれます。
大胆に、「教養=人文知」と定義すれば、それらの知識は「教養」ではありません。
とにかく、定義の問題だと思います。
人文知に限る・限らないの観点も定義の問題です。
「好きを見つける、好きを続ける」ことが重要だと著者は説きますが、元々、自己啓発本や金儲けノウハウ本が好きな人はたくさんいます。
それこそ最近の流れとは関係はありません。
その種の書籍やそのファンは昔から存在します。
当然その場合、その「好きを続ける」はファスト教養の支持者です。
ファスト教養からみて「無駄なこと=ビジネスやお金儲けに関係しない物事」に意味を見出すことが重要である、とレジー氏は書きます。
しかし、なにを「無駄なこと」とみなすかは人によって、見方によって当然変わってくるはずです。
ある人にとって「無駄」に思えることが別の人には「教養」そのものかもしれませんし、またその逆パターンもあります。
著者にとって、「自己責任」を重視するのは、あまり好ましくない「無駄」な考えなのでしょう。
しかし、自己責任という発想を重視する人にとればそれは自分の価値観であり、「好きを続け」ながら著者から見れば「無駄なこと」に意味を見出しているのではないでしょうか。
こちらの誤読ならば、訂正しますが、第六章以下のファスト教養に対する処方箋は、語句や表現の定義次第でどちらにも転ぶ可能性があると思います。
さらには、個人の「嗜好・価値観」がやや軽視されているのではないでしょうか。
著者のいうファスト教養的なものが好きな人はその方面に向かうし、人文知に興味がある人はその分野の本を読むでしょう。
「ファスト教養が広まっている=あまり望ましくない」との認識から、著者の言う「教養あるビジネスパーソン」で構成される社会が望ましいのではないか、と著者の思いは熱いです。
しかし、これも価値観の問題だと思います。
著者は「お金やビジネスに特化した価値観を問い直すスタンスを持つ」ことを重要視しているようですが、それは著者の価値観であって、同じ視点を持つ人もいれば、正反対の人もいるでしょう。
今回は感想を書きませんが、「利他への気づき」や倫理観、社会とのつながりを意識することの大切さなどの論点も提示されています。
しかし、結局は、これも定義・嗜好・価値観の問題ではないでしょうか。
*最後に、ぜひ第二弾で著者自身の言葉による教養の定義が読みたいです。
この本を通読して、改めて「教養」とは何か?と考えました。
その意味では、この本はいいキッカケを提供してくれました。
ぜひ、第二弾でレジーさん自身の言葉で「教養」を定義づけてください。
この読後感想を書きながら、自分は試しに「教養とはオウム的なものの虚構性や欺瞞性を見抜くことのできる見識」と定義づけてみました。
ただし、一般的には、人文関係の知識が教養の定義になるのではないかと思っていますが。
古い人間なのでしょう。
通読はしましたが、読み落としや誤読があれば、訂正するつもりです。